第3話 乞食・宿・魔族の再発見


「やっと着いたー。何か食べようよ」


フェリシテが待ちきれないという表情で、こちらに向かって言う。


「宿は取ってあるから、まずはそこに行ってからだね」


僕は停まった馬車から降り、御者に礼を述べたあと、あたりを見回した。

僕たちは広場に立っていた。


夕闇が街に帳を下ろし始める頃、人々はあくせくと歩き回っていた。ある者は食事のために、また別の者は帰るために、あるいは買い物のために。

人の流れというよりは、無秩序な散らばり――そんな印象を受けた。


朝になれば港へ向かう途中で食事をとり、日が暮れれば帰る途中で食事をする。末端から港へ人々を錨の重さが引き寄せ、夕方になれば給料と潮風がいっしょに彼らを押し戻す。

朝と夕が潮風と呼応するように脈打つ――そんなリズムのある僕の街。

だが、ここはそうではないことがわかる。


日焼けした人間はほとんどいない。

夏だというのに、青白い腕を振って僕の横を通り過ぎていく――人間たち、いや、混血や魔族たちを見てそう思った。


一方で、広場の造りは僕のいる帝国本土と同じ帝国式であることに気づく。ここから見えるだけでも、広場と大通り、そしてそこから延びる小路。二階建て、あるいは三階建ての石造りの家や店――このあたりは僕の所と変わらない。


唯一の違いは、街のあちこちに見える大きな倉庫だった。交易の中継点であるためだろうか。


魔導石を使った街灯がポツポツと灯り始める。僕がこの街についてなんとなく考えていると、一人の人間が僕の前を駆け抜けていった。


遠くから何かを叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、その声をかき消すように二人の男が彼を追いかけながら怒号を上げる。丁度、僕らの目の前でその大捕物は幕を閉じた。


「この盗人が!盗った物出しやがれ!」


二人の男が乞食を棒で叩き、乞食は体を丸めてそれに耐えている。乞食の強情さと兵士の暴力が薄暗い中で戦う。結局、おそらく盗んだであろう酒瓶を、よろよろと彼は差し出した。男の一人がそれを奪い取り、見物人たちに大声で怒鳴る。


「これは見せ物じゃないぞ!さっさと散れ!」


人々は威圧されておずおずと散っていったが、僕はまだ彼らを眺めていた。仲間たちはその流れに従い、宿へ向かおうと離れていく。


「何ずっと見て…」


男は街灯に照らされた僕の服を見やり、少し考え込んでから話し始めた。


「お見苦しいところお見せして申し訳ない。とはいえこちらも仕事なもんでして…」

「別に構わない。彼は酒を盗んだのか?」

「ええ、酒です。まったくこの乞食ときたら!飯は配給で十分あるというのに」


――配給。戦時はともかく、今はほとんどの人が飢えないのはこのおかげだ 。


「その酒というのはいくらかわかるかい?」

「さぁ…でもこの辺じゃ一番安いやつです。味がわからんのでしょう」


もう一人の男――治安維持の傭兵の一人――は乞食を見ながら笑う。つられて目の前の男も笑っていた。


「で、彼をどうするんだ?」

「腕を一本ばかり折ってやろうかと」


そう胸を張って言う男をじっと見つめていると、少しとりみだしたように早口になった。


「いや、腕はいいでしょう。十分殴りましたからな。一つ説教でもお願いします」

「わかった」

「では私達は失礼します 。まだ仕事がありますので」


二人組は一礼をすると去っていき、僕とその乞食だけが残った。往来の人々はまるで僕らを無視するかのように通り過ぎていく。僕は懐から銀貨を数枚取り出し、彼のそばに屈み込んだ。


「これを持っていくといい」


乞食は驚いたような――いや、困惑したような、どちらともつかない表情を浮かべる。少しのあいだ逡巡したのち、何も言わずに僕の手から銀貨を取ると、そのまま走り去っていった。


僕はしばらく彼の背中を眺めていた。なかなか着いてこない僕に気づいたのか、仲間たちがこちらに戻ってきた。


「相変わらずね。いつか飼い犬に手を噛まれるわよ」

「乞食にお金をやっても返ってこないのに。もったいないなー」


僕は二人に向き直って考えを口にする。


「僕は感嘆していたんだよ。プライドより実利をとるその姿に」


――言ってから、失言だったと思った。

名誉や実益を重んじる彼女らに向かって言うべきことではなかった。片方は「名誉ばかりで実益を無視している」と受け取るだろうし、もう片方は「実利ばかりをとってプライドがない」と皮肉を言われたと思うだろう。


そんな居心地の悪い沈黙の中、イザベルが口を開いた。。


「それは――傲慢です。人の行いの価値を量り、裁きを下すなど。

神のみに許されたことです 」


更に変な空気が重くなった。僕は裁くつもりはないのだが。

……いや、もし彼が金を受取りながら僕を罵倒していたら?

そうなっていたら、僕は今頃どんな感情をもっていただろうか。

――彼女の言う通りではないか?


改めて彼女らに指摘されて思う所はあった。僕のこの行為は、ただただ父親から貰い受けた習慣という名の遺産にすぎない。

――よき道徳。

――よき倫理。

僕自身はそのに従っているだけだ。


僕が少し口ごもっていると、レーヌが口を開いた。


「とにかく、宿に行くわよ。道楽息子の茶番に付き合いたくはないわ」


そう言うと宿の方向へ歩き出した。皆がそれに続く。僕もおずおずと――さっき治安維持の兵士に怒鳴られた人々のように――その後を追う。道すがら、魔族の血が入った二人が少しフォローしてくれたが、その声は頭の中でキンキンと響くばかりで余り効果がなかった。


日が完全に落ちて、家々の明かりと街灯が通りを照らす。少し暗い通りで、僕らの影が二重に伸びる。


僕らは予定通り、宿にたどり着いた。見た目は二階建てのどこにでも――少なくとも帝国本土のどこにでも――ありそうな宿だ。窓から漂う匂いからして、一階の一部は食堂か何かになっているのだろう。


レーヌはなぜかドアを開けようとしなかった。「どうした」と聞こうとしたその瞬間、フェリシテが勝手に扉を押し開けて入っていく。レーヌはまたため息をつき、仕方なさそうに中へ入った。僕とイザベルもそれに続く。

――リーダーらしく先導しろ、ということか。彼女はそういう所にこだわる。


「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか?」

「カエン=カンプラで四部屋取ってるよー。ほら、こっちの人間の男」


フェリシテが僕を指さす。目の前の受付の女は、柔らかく微笑みながらこちらを見た。その笑みにのぞいた長い犬歯――イザベルと同じだ。


右手には食堂があり、その奥では、兄と思しき男が給仕をしているのが見える。

左手には階段があり、おそらく部屋へとつながる廊下に通じているのだろう。

――よくある造りだ。


「サインをこちらにお願いできますか?」

僕は受付に向かいながら、ふと疑問を口にした。


「兄妹で働いているんですか?」


受付の女は手を止めずに答えた。


「はい。兄が給仕としてここで働いております。ところで――どうしてそう思われたのですか?」


女は台帳を開きながら、こちらには目もくれない。


「そりゃ、どう考えても――」


……いや、違う。紫という、奇抜な――と僕には思える――髪色の兄妹がいたからではない。第一、こっちではそれが普通だ。実際、ここに来るまでに通りで何人も、魔族か混血と思しき者とすれ違った。黒や茶色ばかりの帝国本土とは違う――それだけの話だ。


――違和感。無意識下で《探知》が発動する。彼女の仕草、表情、わずかな瞳の動き。それら一つひとつから、情報の濁流が頭の奥へと流れ込んでくる。出身地から、朝に目覚めてここへ来るまでの行動経路まで。距離が近いせいで、制御しきれないほどの情報が押し寄せてくる。


「……どうされましたか?」

女は少し不安げにこちらを見ている。


口にしかけた疑問を飲み込み、僕はひと呼吸置いて答えた。


「ちょっと疲れてて。ただ、君とそこの彼が――少し似ていた気がしたんだ 」

「そうですか。余りそう言われることはないんですが…」

「気にしないでほしい。なんとなくそう思っただけだから」


台帳にサインをした。ペンを台帳横に置くと同時、僕はすばやく剣に手をかける。それを見た仲間たちも、合図とばかりに戦闘態勢を整える。


「ど、どうしましたか?」

女は動揺しているが、その驚いたような口調が――かえって猜疑心を強くした。


「なぜ帝国領の宿に――自治魔族がいる?」



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