愛憎の驟雨

@nata_de_coco

愛憎の驟雨

 雨が、降っている。けたたましく鳴いていた蝉の声も聞こえなくなり、あたりは激しく打ちつける雨と、ザッザッと僕が穴を掘る音だけが響いている。

 日が沈んだ後も残り続ける夏の暑さに、じんわりと汗をかきながらも手を動かすことをやめない。

 手に余る大きさのシャベルを突き刺しては土を払う。

 僕の視界を遮るように地面に落ちる雫は、汗なのか雨なのか、それとも――僕の瞳から零れ落ちる涙なのだろうか。

 感情を殺し、額の雫を手で拭う。僕は、無心で穴を掘っていた。


 君と出会ったのは、つまらない大学サークルのつまらない飲み会の席だった。

 君はたくさんの友達に囲まれて、ほんのり赤くなった頬を緩めて笑っていた。

 僕よりも華奢な体に、屈託なく笑う顔、凛としていて明瞭な声。

 友達と話すその姿はとても楽しそうで、君の天真爛漫な性格が目に見えて分かった。

 すべてが美しく、そして――醜く見えた。


 僕は人を愛せない。

 醜くて、愚かで、自分のことしか考えない。そんな人間が嫌いで嫌いでたまらなかった。

 すべての人間が醜く、歪んで見えた。同じ人間である自分を愛すこともできなかった。

 僕は人を愛せない。そのはずだったのに。君と出会って、すべてが変わってしまった。

 初めて、人間を美しいと思った。思ってしまった。


「やあ、十条君」

 十条凪。それが彼の名前だった。

 彼は文学部生であるため、基本的に会うことのできる機会はサークルのみだったが、僕は彼に会いたくて、この気持ちを確かめたくて、毎日文学部棟に通っていた。

「お前、また来たのか」

「来ちゃった」

「来ちゃったって。彼女じゃあるまいし……」

 彼は醜くて美しい顔を歪ませて、毎回嫌な表情をしたが、それでも僕を受け入れてくれた。

 他愛のない話をしたり、一緒に食事をしたり、彼に勉強を教えたりもした。

 彼は僕よりも頭は悪いし、身長も低いし、何よりも信用なんてできない醜い人間なのに、僕はなぜか毎日彼に会いに行っていた。


「お前さ、自分の勉強はいいのかよ」

 いつものように文学部棟に来ていた僕に対して、十条君はそう尋ねた。

 僕は医学部に所属していて、文学部生の彼よりも一層勉学に励まなければならない立場だ。それゆえに、このような言葉をかけたのだろう。

 彼が心配してくれているという事実に喜びを感じるのと同時に、僕のことを何もわかっていないということに苛立ちも感じた。

 僕は彼のことならなんだって知っているし、彼の気持ちだって理解している。それならば、彼も僕のことを何でも知っておくべきだし、僕の気持ちも理解してほしい。

 苛立ちは、次第に喜びを飲み込んでいき、僕の口からは冷徹な言葉のみが出ていった。

「君に心配されるほど、僕は馬鹿じゃないよ。君こそ、今も僕に勉強を教えてもらっているんだからさ。自分の心配をしたらどうなの」

 僕の言葉に対して、彼はむっとした表情をして黙り込んでしまった。

 その顔がなんだか可愛らしくて、僕の苛立ちはいつの間にか消えていった。

 しばらく沈黙が続いた後、次に口を開いたのは彼だった。

「なんでお前って、俺に毎日毎日会いに来るんだよ。俺のこと嫌いなら来なければいいのにさ」

 彼は、あきれたような表情で話す。その言葉を聞いて、やはり彼は僕のことが何もわかっていないのだと感じた。

「それは違うよ、十条君。僕は君のことが大好きだよ。醜くて、愚かで、頭も悪い君のことが」

「やっぱ頭おかしいだろ、お前。親の顔が見てみたいわ」

 ふとその言葉を聞いて、様々なことを思い出す。

「親の顔か。僕こそ見て見たいよ。親なんて物心つく前に死んだからね」

 そう明るく話す。彼はなんだか気まずそうな顔をして、僕に謝った。

 なぜ彼が謝罪したのか、僕にはわからなかったが、彼の醜くて美しい顔が曇ってしまうのはなんだか寂しかった。

「でも、親が死んだから莫大な遺産を手に入れたし、その後厳しい教育を受けたげでこの大学に入学できて、君に、出会えたんだから。むしろ親が死んで良かったのかも」

「そんなこと言うなよ。死んでも、良かったなんて」

 僕のことばを遮るように、彼が反論してくる。

 どうしてだろう。彼の表情が曇っていたから、僕は彼を慰めようとして、話をしていたのに。

 どうして、彼は怒っているのだろう。その怒りは誰に向かっているのだろう。

「俺は、お前のことも家庭の事情も知らないし、よく分からない。でも、お前の親はお前のことを愛していたと思う。そんな親のことを死んでよかったなんて、言ったらダメだろ」

 怒りと悲しみ。二つの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ったような複雑な表情を浮かべて、君は話す。

「愛、なんて、僕には分からないよ。人に愛されたことも、人を愛したこともないのに」

 そう言うと、彼は驚いたような表情をした後、ふいに笑みをこぼして言葉を紡ぐ。

「愛したことないって。お前、さっき言ってたじゃないか。俺のこと好きだって。それって、――愛だろ」

 衝撃が走る。僕のこの感情は愛。僕は彼を愛している。

「それに、お前の愛とは違うかもしれないけど、俺もお前のことは愛してるよ。勉強教えてくれるし、おかしな奴だけど悪い奴ではないしな」

 彼も僕を愛している。その言葉に心が捕らわれたような不思議な感覚に陥る。

 太陽のように笑う君。

 先ほどのような曇った表情はすっかり晴れている。

 僕と彼は愛し合っているんだ。これが愛なんだ。

 僕は人を愛せない。無償の愛を与えてくれる親もいなければ、親代わりの叔母とはまともな会話をしたことがない。

 僕に寄って来るのは、遺産目当ての親戚と表面だけを取り繕った友達のような何かのみ。

 僕に、愛を与えてくれる人なんて、僕が愛せる人なんていないと思っていたのに。彼が、僕に愛を教えてくれた。

 美しくも醜い、言葉にできないほどの様々な感情がぐちゃぐちゃに絡み合ってもう解けることのないような気持ち、これが愛なんだ。


「貴方も、お姉様と一緒に死ねばよかったのよ」

 はじめて聞いた叔母の言葉は、今でも鮮明に覚えている。

「貴方が憎い。貴方がいなければ、お姉様が死ぬことも、お姉様の愛する彼が後を追うこともなかったのに。今すぐ死んでほしい。殺してしまいたい。なのに、どうして、貴方からお姉様の面影を感じてしまうのかしら。貴方も、貴方を殺せない私も、なんて醜いのかしら」

 今になって思う。

 彼女のあれも、一種の愛だったのだろうか。

 僕が十条君を愛しているように、彼女も僕を愛していたのだろうか。

 それとも、彼女が愛していたのは僕ではなく、僕の中にいる「お姉様」だったのだろうか。僕に与えられた、与えられるだけだった衣食住も教育もすべて「お姉様」に向けられていたのだろうか。

 今となっては、何も分からない。


 ある日、普段はいるはずのない医学部棟を歩く彼の姿を捉えた。

 胸が急激に高鳴る。僕に会いに来てくれたのかもしれない。

 醜い彼が、美しい彼が、いつも僕を邪険に扱っていた愚かな彼が、それでも受け入れてくれた優しい彼が、僕に会いに来てくれた。

 やはり彼も僕を愛していた。彼も僕なしでは生きていけなくなったんだ。

 早まる鼓動を感じながら、全身が熱くなるほどに興奮した僕の目に、ふと、何かが映る、と同時に、この世のすべてを煮詰めたようなどろどろとした感情が奥底から湧き上がってくる。

 彼の隣に、誰かが、いた。

「新しい映画を借りたんだ。今日、私の家で見ようよ」

「またスプラッター映画だろ。俺、苦手なんだよ」

「今回の映画はそんなにグロテスクじゃないよ。多分」

「多分って言ってるし。てか、実習後によく見れるよな」

「好きだからね。それに、十条君と一緒だから楽しいんだよ」

「ばか。そんなこと言われたら見るしかないだろ」

 そう話す十条君の頬は真っ赤に染まっていて、彼の腕には隣の彼女の腕が絡められていて、楽しそうに笑いあっていた。

 美しい彼が、醜い彼女と楽しそうに笑っている。

 おかしいおかしいおかしい。

 彼は僕に会いに来たはずなのに。彼は僕のことを愛しているはずなのに。醜い彼を愛せるのは、愛していいのは僕だけなのに。

 僕だけの彼だったはずなのに、彼の視線の先に僕はいない。そんなことあっていいわけがないのに。

 彼は僕を裏切った。僕の愛を裏切った。

 嫉妬、愛着、憤怒、情愛、不快、悲哀、純愛。様々な感情がドロドロに溶けあって複雑な感情が生まれる。

 その感情のすべてが終着するのは、彼への歪んだ愛だった。


 ザッザッと穴を掘り続ける。かなりの深さまで掘っていき、それに伴って、降り続ける雨も強く激しくなっていた。

「このくらいかな」

 穴を掘るのをやめると、あたりには激しく打ちつける雨の音のみが響いている。

 僕は、そっと隣に寝かせていた彼の体を抱き上げる。

 僕よりも華奢なはずの彼は思っていたよりも重く、抱き上げるのにもかなりの力が必要だった。

 そういえば、死んだ人間の体は重たいって誰かが言っていた気がする。

 そんなどうでも良いことを思い出しながら、掘った穴に、彼を寝かせた。

 僕を裏切った彼は、今までの醜い人間と何も変わらない存在だった。

 僕を受け入れてくれたあの姿も、僕とともに他愛のない話をしたあの声も、すべてが嘘だった。幻だった。

 はじめて愛を教えてくれた大好きな彼のことが、大嫌いで仕方がない。

「僕を裏切ったくせに。僕を愛してくれなかったくせに。君は今なお美しい。そんな君のことが嫌いで、嫌いで、嫌いで――大好きだよ」

 はじめてのキスは、鉄の味がした。

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