第4話 隠れ家
分厚い雲に覆われた夜空に星はなかった。晴れていれば、通信回線を乗せた小型艇とその護衛艦が光って見えることもあるらしいが、少なくとも今夜観測しようとする者は居まい。自分の吐いた白い息を蹴散らすようにしてアパートへ駆け戻ったシグマは、街路灯を反射するブロック塀の門をくぐり、一階の角部屋の鍵を開けた。錆と凹みのだらけの扉の向こうは全くの闇で、屋外の照明の名残が辛うじて家具の輪郭を浮かび上がらせる。
「デルタは?」
「肝臓破裂と、ほかにもいくつか臓器に傷が入ってた。最低でも二カ月は安静だね。折れた返しが体内に散らばってて、取るのに苦労したよ。毒針が刺さったまま基地まで行ったって言うんだから、自業自得だけど」
「……そっか」
「襲撃ポイント、僕が言ったとおりだったろ? キロプテラ人の狙撃手を使うなら降下できる高さが要るし、建物に翼が引っかからないぎりぎりの道幅はあそこしかないって」
「うん」
ほぼ真下にあるカイのつむじを見つめながら、シグマは左腕に提げたままの買い物袋からサイダーの缶を取って渡した。カイは子供のように小さな両手でそれを受け取り、シグマを見上げる。白目のない大きな瞳が髪にまだらに付いた発光体の光を受けて淡く輝き、極端に小さな口が嬉しさをこらえて少し歪んだ。シグマは小学生程度の背丈しかないカイの頭を撫で、わずかに開いた引き戸の隙間から室内を窺った。光に弱いカイの為に室内の照明は全て消され、エアコンの稼働音が聞こえた。ぬるい風が顔に吹きつける中、片付けをしていたらしいローの長身の影がふいに伸び上がり、こちらへ手招きした。
「シグマ? 帰ったの? 明かりつけて良い?」
「うん、ただいま」
「ふぁ……、じゃあ僕ちょっと仮眠取ってくる。大量に麻酔使ったから、二、三日は急に吐いたりするかも。気をつけてやって」
シグマと、室内のローに手を振って、カイは静かに脱衣所の方へと歩いて行った。軽い足音が遠ざかるのを聞きながらシグマは室内に入り、ローが今しがた点けた電気スタンドの明かりを頼りにその傍まで歩いて行く。買い物袋とともにローの隣へ腰を下ろすと、正面の布団に横たわるデルタのやつれた寝顔と苦しげな息遣いが、そこからはよく見えた。
「寒かったでしょう。雨降ってなかった?」
「大丈夫。途中でぱらっと降ったかな、ってくらい。……デルタの具合は」
気道を確保するために、丸めた毛布に凭れているデルタの右腕が、畳の上に投げ出されている。シグマは点滴がいくつも刺さったその腕に手を伸ばしかけたが、指先に触れる寸前で彼は手を引いてしまった。ローは残ったセロファンや紙の屑を拾い集め、袋にまとめながら微笑んだ。
「大丈夫よ。それより、ネットニュース代わりに見といてくれって。今日の作戦の分と、なんか関係ありそうな情報あったらそれも」
「わかった」
こういう時は、仕事を与えられた方が気が楽なのだと、ローには分かっているようだった。シグマは背後の棚に手を伸ばしてタブレット端末を掴み、さっそく立ち上げた。片付けを終えたローはその様子を見守る体勢に入っていたが、ブルーライトの反射光にかぎ裂きとほつれだらけになった彼のパーカーが浮かび上がると、慌てて端末をシグマから取り上げた。
「ちょっと待って。あんた、ベータに踏まれたところが
「え、いいよ。そのうち治るし」
「見せなさい」
端末を取り返そうとしたシグマだが、ローにこう言われては逆らえず、パーカーを脱いだ。十一月の冷気が剥き出しの首筋や背中を這い上ってきて、全身に鳥肌が立つ。思わず縮こまったシグマの肩にローは余った毛布を掛け、左肩だけを露出させた。首筋の古い刺し傷を塗りつぶすように、青紫色の細長い痣が背面から肩へと伸びている。ローは湿布のフィルムを剥がしながら、その打撲痕を指先でなぞった。
「うわあ、ベータの足の形がくっきり残ってる。地球人の肌って本当に弱いのね。お腹もちょっと見せて……ってこれ、A三号の保冷ケースの形じゃない。こんなに強く押し付けちゃって、内臓は大丈夫なの?」
「まあ、たぶん」
「たぶんじゃないわよ」
シグマの肩と腹部の痣に湿布を貼ったローは、仕上げに長い中指で彼の額をいちど小突いた。骨のないチューブ状の指は全て筋肉で、突かれる力加減によってはかなり痛い。額を抑えたシグマは毛布を首まで引き上げ、達磨のように丸くなって暖を取った。ふと目に入った赤い点滅光の方へ顔を向けると、部屋の隅に行儀よく並んだいくつかの電子機器の中に、彼にワクチンを届けた蜘蛛型ロボットの上半身があった。充電器に手足を縮めて収まるその姿は今のシグマそっくりで、彼は小さく笑った。ローは手当の仕上げに、発信器を埋め込まれた首の後ろの手術痕を確かめると、シグマの肩に厚手の上着を着せかけた。
「ほんとにA三号がお気に入りなのね。言っとくけど、餌なんかあげちゃ駄目よ」
「分かってるけど、なんか可愛いじゃん。自分で背中に脚回して掃除するとことか」
「そう? まああんたが気に入ったんなら良いわ。こんど新しいケース作るけど、一緒にやる?」
「マジで? やるやる」
上着のボタンを留めながら、シグマは弾んだ声で答えた。ローは彼の短髪を二本の指でかき回し、先ほど取り上げたタブレットをシグマに渡した。サムネイルの一覧からニュース動画を選択し、二人で端末を分け合うように見つめる。画面上では昼間の爆発騒ぎの現場上空が大写しになり、女性の声で事件の概要が説明されていた。
『本日午後二時ごろ、タカミ製薬第一工場にて爆発があり、倉庫二棟と研究棟が焼失する火事となりました。この火災による死傷者はいませんでしたが、研究棟の屋上から男性一人の遺体が発見され、さきほど主任研究員の
「え、早すぎて分かんなかった。シグマ、何だって?」
インカム型翻訳機の入力端子を耳に押し付けて、ローは少し慌てた様子でシグマに尋ねてくる。シグマは動画を一時停止し、字幕を指しながらゆっくりと説明してやった。
「今日の爆発騒ぎの話と、デルタがハニトラかけてた研究員のおっさん居ただろ? あの人の死体が見つかったって話。普通の殺し方じゃないから、解剖して調べるって」
『また現場検証の結果、研究棟の冷凍庫から現在流行中のウィルス性肺炎、通称「クロック」の試作ワクチン一本が盗み出された可能性があるとして、警察が捜査を進めています。なお、爆発の一時間前に工場周辺を
「……ドローン、警察で調べてるって。指紋取ったりしてんのかな」
「びっくりするでしょうね。中指と人差し指だけこんなに長い地球人いないもの」
ローは端末の明かりに自分の手を翳し、どこか気の毒そうに呟いた。白い肌の上を虹色の艶が寄せては返し、さらにブルーライトが濃い影を揺らめかせる。ホログラムのような美しさに見入っていたシグマはふと我に返ると、傍らの買い物袋に手を突っ込み、蜂蜜の瓶の蓋を開けながらローに渡した。
「あ、これ。今度はちゃんとした蜂蜜。ちょっと高かったから量少ないけど」
「ありがとう、もうお腹ぺこぺこ。三日絶食はやっぱりきつかったわ」
ローは嬉しそうに瓶を受け取り、右手の人差し指だけをその中に浸した。呼吸は瓶の外に出した中指で行うらしい。かなりの勢いで減っていく蜂蜜を横目に、シグマは再びタブレットを操作し、大手新聞社のネット記事を検索した。『謎のウイルス性肺炎、沈静化の見込み』、そして『ビジネスホテルの遺体、MS女性社員と判明。身分証不正利用の形跡あり』。探していた記事の見出しが立て続けに並んでいるのを見つけたシグマはまず最初の記事をタップし、展開されたグラフのスクリーンショットを撮る。食事をしながらシグマの手元を覗き込んだローが、やはり長い左手の人差し指で画面を指した。
「ねえ、これが今回使ったウイルスの
「そう、累計三万人。で、こっちが死者数。最初の三カ月で五百人くらい死んだんだけど、あとは五十人とか、二十人とか。もうワクチンできちゃったから、減ってく一方だと思う」
シグマは右肩下がりに下がって行く死者数のグラフを指して、事務的に答えた。地球人がこれだけ、自分たちのせいで死んだという記録を目にしても、彼の心には不思議なほどに罪悪感も
「宇宙艦隊もないからって舐めてたけど、地球征服って楽じゃないのね。去年の総攻撃、核弾頭付きの弾道ミサイルが大気圏外で爆破されたの見て、私ぞっとしちゃったもの。百六十二号だって、かかったら入院が必要なウイルスだって聞いたわ。それを半年で対策してくるなんて」
「え、そんな怖いやつだったの? 司令の母星から持ってきたウイルスなんでしょ?」
「環境が変わって弱毒化した可能性が高いんですって。でも、そもそも地球人にちゃんとしたワクチンが作れるなんて、誰も思ってなかったもの。……偉い人たちは、半年で母星に帰してやるなんて言ってたけど、やっぱりそんなのあてにしちゃ駄目ね」
ローの呟きの語尾には、シグマにも分かるほどの心細さが滲んでいた。シグマはローを慰める言葉も思いつかず、ちらちらと隣を窺いながらネット記事の画像とリンクをコピーし、いつも通りに情報を分類して箇条書きに並べていった。司令に提出する報告書のためだが、といっても内容はすべて日本語で、彼にできるのはここまでだ。これを地球遠征日本方面軍内の公用語に直し、報告書に仕上げるのはデルタの仕事だった。まだ目を覚まさないデルタの寝顔をちらと見て、シグマはタイピングの速度を上げた。いちどカイを起こして、せめて自動翻訳の修正だけでも頼めないかと頭の中で考えていた。ローは瓶に残った蜂蜜を隅々まで舐め取り、画面に着々と増えていく文字列を見つめた。
「……私も読み書きができれば、少しはデルタの仕事を減らせたのに。人工知能に翻訳させても、やっぱり最後は人のチェックが要るんですって。シグマはすごいわね、こんなに大量の文章とても読みきれないわ」
「俺は自分の言葉で読み書きしてるだけだから。……すごいのはデルタだよ、翻訳機使わずに日本語話して、文章まで書いてさ」
「降下中ずっと日本語の動画見てたわよ。たぶん、頭の出来が違うのよね。神様って意地悪だわ、こんな人が孤児だなんて」
ローはデルタの手を取り、点滴の刺さった箇所を避けて冷え切った肌をタオルで包むと、空瓶を片付けるためにいちど席を立った。デルタは覚醒しかかっているのか、先ほどから呼吸の合間に弱々しい掠れ声を上げている。シグマが文章ファイルを保存した直後、戻ってきたローが緊張をはらんだ横顔でデルタを覗き込んだ。
「麻酔がさめてきたわ。吐くかもしれない」
「洗面器持ってくる。あと、水と雑巾でいい?」
「ええ、お願い。……デルタ、分かります? デルタ」
ローが怪我人に呼びかける間に、シグマはタブレットを片付け、足音を殺して風呂場に向かった。真っ暗な脱衣所ではカイが体を丸めて眠っており、明かりは点けられない。シグマは手さぐりで頼まれたものをかき集め、取って返して部屋の敷居を踏み越えた。インターホンが鳴ったのは、その時だった。
「……誰?」
「……とりあえず、俺が出るから。あとお願い」
シグマは洗面器とタオルを
「……何のご用でしょうか」
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