事故物件の隣に住む
もみあげ大将
第1話
メゾンひあたり
築二十年 バス停近く
1K(角部屋)三階建 鉄筋コンクリート バストイレ別部屋
敷金礼金なし インターネット無料 家賃三万円 鉄筋コンクリート
お隣さんは~……住んでいないみたいですね。今は。
担当者は笑う。エレベーターは無い。隙間から下の見える階段を昇れば、カン、カン、とやたら響く音がした。
他の住民の気配はない。仕事中なのか、空き部屋なのか。
今どき玄関に名前を書く人もいないし、チラシも入り口の郵便受けだ。
時々扉の横にスコップや鉢を置いている人はいた。二階を横目で見た時に確認した。
周囲は静かな住宅街、窓側は空き家になっているらしい。薄暗い家が見える。
壁にはツタが這っていて、これから徐々にさなぎの中へ潜っていくのだろう。
昼の2時、子供たちは学校だろうし、社会人は仕事中。夜仕事の人は仮眠中。
大通りからは少し離れていて、遠くからクラクションの音が聞こえてくる。
少し遠くを見れば、新たに洗濯物を干す人は見えた。
廊下は風通しがいいみたいだ。頬に冷たい風が触れた。
開けますね、と担当者がカギを取り出す。
きぃ、と音が鳴る。
ゆっくり、まるで、自然に開いたみたいに。
私が入居希望している部屋の隣からだった。
担当者が「では入りましょうか」と声をかけるが、言葉を詰まらせる。
私も、担当者も、くぎ付けになった。
薄暗い部屋から、土気色のなにかが、覗いている。
冷たい風は、そこから流れているようだった。
冷たいだけじゃない、形容しがたいとげとげしさ。
真冬のやけに澄んだ冷たい風とは違う。無理に冷やしたような空気が流れる。
ちゅう、という鳴き声で、ねずみがととと、と隙間から走っていく。
茶色い水が、玄関の隙間から流れて、廊下に線を作り上げた。
不快なにおいはない。ただ、寒気がするだけだ。
はあ、と、ため息のような音が、まるで直接耳元で聞こえるようだ、
黄色く濁った目が、じい、と私たちを見ていた。
「で、今度そこに引っ越すから手伝ってくれない?」
『嘘じゃん』
引っ越し1週間前。そろそろ人手を考えないとな、と弟に電話をした。
上記のことを丁寧に説明したが、信じられないというか、呆れかえった声が返って来た。
「なんかさぁ、別に事故物件当該の部屋じゃなかったら告知義務無いみたいなんよ。担当者の人も実物見るの初めてみたいで腰抜かしてた。ウケる」
『やめろやめろ!そんなとこやめちまえ!』
「契約しちゃった」
『姉ちゃんってバカなのか?』
ここにします、と言った時の不動産屋の顔が滅茶苦茶面白かったのが決めてなんて言えない。
『姉ちゃんってバカなのか?』
声に出ていたみたい。
「見たくない?事故物件。タダで見放題だぞ」
『俺実の姉のことこれ以上バカって言いたくねえよ』
「来週車出してよ。普通車だから多めに載るでしょ」
『自分の車どうしたんだよ』
「母ちゃんに貸したら事故ったんだよね。母ちゃんはめっちゃ元気。最初母ちゃんに手伝ってもらおうと思ったんだけどさぁ。父ちゃんも母ちゃんの世話で今疲れてるし」
『事故物件の影響出てる出てる!』
一週間後
弟は本当に嫌そうな顔で迎えに来てくれた。
ある程度の荷物は業者に任せてもう届いているはずだ。
「優しい弟をもって姉は幸せ者だよ」
「俺はかなり不幸だよ」
「仕事は順調?」
「まあ。同僚もいい奴だし」
二つ年下の弟、翳(かげる)は顔だけはやたらいい男だった。
中学生時代に引きこもりになって、高校は通信制だった。
両親も私も、まあ暴力を振るわないならいいか、とよく言えば寛容、悪く言えば放任的だった。別に全然話さないわけじゃないし、嫌なら別にいいか、くらいだった。まあ、兄は本当に嫌そうな顔で毎日小言を言っていたけど、それにキレないからいいか、と思ったし、あんまりひどく言われたときは部屋に入って、ありゃ引きこもりたくなるよな、と話をした。
そんなもんで、これではいけないと自分で思ったのか、大学に進学した。この辺りはかなり真面目だったんだと思う。しっかり就職して、経緯の割にまともな人生を送っている。
「今からでもやめない?」
「止められないんだ。好奇心」
「人間なら好奇心くらい飼いならせよ」
「姉ちゃんニュー人類だから好奇心が一番強い」
「滅びちまえそんなニュー人類」
荷物をいくつか部屋に運んで、あ、と声を上げる。
「お隣さんに挨拶するから一緒に来てくんない?」
「姉ちゃんってバカじゃなくって頭おかしいんか?」
「タオルって誰が貰っても嬉しいと思うんだけど」
「水死した人だったらどうすんだよ」
「嬉しいなって思うかなあ」
「姉がバカ」
あんまり汗かいた後だと化粧とれちゃうしな、と弟を掴まえて、サンダルを履いて隣の部屋のチャイムを押す。前と同じ2時だ、多分いるだろう。事故物件の幽霊だって用事あるだろうし。弟はずっと『こいつマジか』という顔をしていた。
扉が開く。
寝起きというよりは、争った後のように乱れた髪、もう洗っても落ちないような、黒く変色した血がついた服。あ、思ったより今どきの服だな。レトロ寄りで全然通用する、その花柄とチェック。爪は割れて、右手小指の爪は剥がれて腫れている。左足にあまり力が入っていないのか、少し体が傾いて猫背気味だ。黄色く濁った瞳と、裂けた目じりがこちらを捉えた。
「あ、すいません。隣に越してきた小岡灯です。後ろは手伝いに来た弟の翳、よろしくお願いします。これ、お近づきの印のタオルですけど、タオル大丈夫です?」
「マジかよ」
隣人はじ、と見つめて
「少゛々゛お゛待ち゛く゛ださ゛い゛」
「え、なんて言いました?」
「果敢かよ」
ゆっくりと、左足を引きずりながら奥に引っ込んだかと思えば、箱を一つ持ってくる。
「入゛浴゛剤゛、よ゛け゛れ゛ば……引゛っ゛越゛し゛祝゛い゛と゛い゛う゛こ゛と゛で、私゛、死゛ん゛でて゛使゛わ゛な゛い゛し゛……」
「やったー。いいんですか?」
「こ゛れ゛か゛ら゛よ゛ろ゛し゛く゛お゛願゛い゛し゛ま゛す゛」
深々とお互い頭を下げて、扉を閉めた。
「やべ、名前聞き忘れた」
「岩゛田゛です゛」
「あ、助かります」
今度こそ扉が閉まったようだ。
「なんかいい人そうでよかったわ」
後ろにいた弟はしゃがみこんでいた。
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