スプーン潰し

家に帰るまでの足取りは速かった。

いや、むしろ走っていた、それなりの速度で。


オンボロアパートに到着する頃には、せっかく洗い流した身体が汗まみれになるほど疲弊していたが、そんな事、気にする余裕もなく、勢いよく部屋に転がり込んだ。


エアコンでキンキンに冷えた部屋に思わず寒気を感じ、下げていた設定温度を再び上げる。

出かける前にスイッチを押していた炊飯器は、既に保温になっていた。


ボウルに水を張って解凍していた冷凍肉も既に溶けている。普段であればここから夕飯作りをするはずだが、台所に目もくれず、俺は散らかった部屋の中から無作為に手に取った空のペットボトルをテーブルの上に置き、興奮と疲弊の混じった荒い息を深呼吸で整えながら、恐る恐るペットボトルに向けて手のひらを向けた。


約15年前まで毎日のように独りでに練習していたあの、今思えば拗らせすぎていた厨二病の修行を、恥も外聞もなく再び行った。


指先に力を込める。

それこそ名前も分からぬ筋肉がってしまうほど、奥歯を噛み締めながら、ひたすらにペットボトルに集中力を向ける。


車の走行音、カラスの鳴き声、隣の部屋の生活音、その全てがシャットアウトされ、徐々に自身の鼓動の音が、こめかみに走る動脈の音が、ドッドッと、ザッザッと大きく聞こえた。


「…うごけ」


絞り出すように出した、さほど大きくもない声が静寂を断ち切った。


その瞬間。


「う、いた」


ペットボトルが、スポーツドリンクがほんの1ml程度残っていた捨てる事を忘れていた、いつ購入したかも分からぬペットボトルが宙を舞った。


「は、はは…」



自然に笑みがこぼれる。

それと同時に、かつて3年間も愚直に続けていた修行が、記憶の片隅に存在するパソコンのデスクトップで言うならゴミ箱に入っているような、人に言えば嘲笑されるような思い出したくもない黒歴史が、すべて絶え間ない誇るべき努力であったと、強く確信した。


「やった」


高校三年生の時、今までの自分がとてつもなく馬鹿に思えて、それまでのめり込む程に愛していたアニメ、漫画、ラノベ全てを消し去ったあの頃の自分に、もしも時空を超えてメッセージを送ることが出来るのなら


『お前のしてきた事は無駄ではなかった』


と確実に、絶対に伝えるだろう。


力んだ手をゆっくりと緩める。すると先程まで目線ほどの高さまで浮いていたペットボトルが、カランという音を立ててテーブルの角にぶつかり地面に落ちた。


ふと唐突に自身の中に優越感を覚える。

演技力に定評がある人気俳優、顔が良くて歌の上手いアイドル、無類の強さを誇る格闘家、ロレックスを腕につけ高級外車を乗り回す若手社長。


そんな劣等感を抱くことすら、それこそ憧れることすら烏滸がましく思えていた、いわゆる"勝ち組"側に対し、急にとてつもなく尊大な優越感を感じた。


俺には誰にも持っていない唯一無二、それこそ無限の可能性を生み出す才能がある。

それだけで、今までの灰色の景色が急に鮮やかに見えてきた。それと同時に、謎の使命感が湧いた。


「鍛えよう」


この力をひたすらに鍛えよう。それこそ漫画やアニメに登場するような念動力を操るキャラクターのように、緻密で繊細な操作から車のような鉄塊をも小さく圧縮出来てしまうほど強いパワーに至るまで、圧倒的な力と言えるほどまで完璧に仕上げてやろう。


そう思い立った俺は、再びテーブルの上にペットボトルを置いた。





目が覚めると、夜明けだった。

あれからひたすらにペットボトルを動かす練習を重ねた結果、空中で回転させることに成功した俺は謎の達成感と長時間にわたる集中の持続、そして主に右腕を襲う疲労感のせいか、床に寝そべりしばし休憩した後、そのまま意識を手放したらしい。


いわゆる寝落ちというやつだ。


スマホの時計の時刻を見やる。


4:50と表示されていた。

季節は夏、日の出の時間もかなり早い。


目が覚めた俺は、口の中に広がる嫌な感覚に顔を顰めながら、シンクに向かって歩みを進めた。

コップに刺さった歯ブラシに目を向ける。


ふと、その歯ブラシに向かって手を向けて軽く手繰り寄せるように念じた。すると昨夜、初めてペットボトルを動かした時の、あのぎこちなさとは比べ物にならないほどスムーズに、歯ブラシが手元に収まった。


「よし」


確認するように頷く。

朝起きて、力が無くなっていたらどうしようという不安を抱いていたが、杞憂だったようだ。


俺は歯ブラシを持つ右手ではなく、今度は左手を前に軽く突き出し、コップの傍らに置かれた歯磨き粉に意識を向けた。


「あ」


すると、手元にやってきたのはコップだった。


「こっちじゃない…」


コップを元の位置に戻し、再び歯磨き粉に手を向ける。すると、ゆらゆらとぎこちない動きをしながら浮き出した歯磨き粉は、ゆっくりとこちらへ寄ってきたかと思えば、力尽きたように床に落ちた。


それならばと歯ブラシを持ち替えて、右手を歯磨き粉に向ける。その瞬間、先程までのぎこちなさが嘘のように、さらながら重力が反転したがごとく手元に収まった。


なんなら、右手なら手のひらで軽く浮かせながら回転させることするできる。面白いのでしばらく回して遊んだ後に、ようやく歯磨き粉をブラシに絞り出し、口の中に放り込んだ。


シャカシャカと磨きながら思案を重ねる。


「(まず、俺に身についた力は恐らく…念動力…サイコキネシス)」


空虚を見つめる。


「(サイコキネシスといえば、たしか昔ロシアの女性に使えるのがいたよな…ニーナ…なんだったか、あれは確か、テーブルの上に置かれたマッチ箱をわずかに動かしていただけ……いや、俺すごくね)」


謎の自尊心にほくそ笑みながら、右手に持った歯磨き粉のチューブを、手を触れずにペン回しのようにぐるぐると複雑に回す。


「(あとは、ユリ・ゲラーか。ちょっと待てよ、俺ならもっと凄いスプーン曲げできるんじゃないか?)」


動かしていた左手を止め、浮かしていた歯磨き粉を置き、食器棚を漁る。

その中から、百均で買ったスプーンを引っ張り出した俺は、右手に乗せて浮かせた。


「(曲がれ…)」


それまで念動力で物を浮かせたり動かしたりしたことはあったが、形状を変化させたり破壊させることは無かったため、自然と全身に力が入る。


口にくわえていた歯ブラシを強く噛みながら、俺は指先に強い力を加え、やがて徐々に握りしめていく。


すると空中に浮いていたスプーンがわずかに軋みだし、やがて手持ち部分から蛇腹のように折れ曲がり始めた。


「(…ッ)」


時間をかけてゆっくりと、徐々に小さくなっていったスプーンは、最終的に落花生ぐらいのサイズに変貌を遂げた。


「ッベ…はぁ、はぁ…よし」


口の中に溜まっていた歯磨き粉の泡をシンクに吐き出し、呼吸を整える。


「俺、ユリ・ゲラー超えたな」


スプーン曲げの範疇を超えた、スプーン潰しを成し遂げた俺は、口角を大きくあげた。

それと同時に、再びスプーンを買いに行かなければならないという面倒くささを感じたのだった。

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