第2話
白石晃の家は新宿から中央線に乗って数分の荻窪にあった。駅の北口にはタクシーが整然と並び、バスロータリーがある。新宿までとはさすがに言わないが、駅前の教会通りという名の商店街が賑わっていた。
個人店が並ぶ活気のある教会通りを抜け、徒歩で二十分。人気は薄れ住宅街が建ち並ぶ、木造アパートの一階の一室。
白石は妻の信子とひっそりと暮している。
二人の間に子供はない。
二十代の終わりに籍を入れたが、間もなくして信子は精神を病んでしまった。
涼太が信子の主治医になったのはほんの最近のことで、それまでの約十年は病院に通わず、ただただ部屋に引き籠り寝たきりをしていたという。なぜ最近になって心療内科に通い始めたのかと以前問うた時、今まで無かった症状が出始めたため信子の手を引っ張って家から連れ出した、と力無げに白石は答えた。
今まで無かった症状。
希死念慮が芽生えたのだ。
それまで、頭が痛い、眩暈がする等の身体的な症状だったが突如、死にたい、と漏らすようになった。
白石にとってまさに青天の霹靂であったろう。
死にたい死にたい、と譫言のように毎日呟く。
二人っきりの狭い四畳半の部屋。
とてもじゃないが、まともな精神でいられない。
酒に酔って横暴な態度を大衆の面前に晒してしまったが、白石は元々気が優しく妻想いの人物なのだ。こうして酒浸りになってしまったのも、妻の面倒を看ることでのストレスが溜まってしまったのだろう。
白石を自宅まで送りがてら、涼太は和人を伴って信子の様子を見にやって来た。夫の白石がここまで荒れているのだ、要因の信子の様子も気懸りでしかない。
二階建ての木造アパートは外に二階へ繋がる錆びた階段がある。大柄な人間が乱暴に一歩、階段に足を掛けようものなら途端に崩れてしまうであろう。そのためか二階には誰も住んでいなかった。
正しくは、この隙間風の吹くおんぼろアパートには白石夫妻以外住んでいない。
アパートを見上げた和人は、次に医師に介護を受け老人のように背を丸くした男を観察した。
「晃さんはね、昨年肺を患ってしまってね」
不躾に観察をしていた幼馴染みの視線に気付いた涼太は穏やかな口調で諭した。
「それなのに真っ昼間からこんなに酔うまでお酒を飲むなんて。いけませんよ、入院なんてしたら奥さんが悲しむじゃないですか」
「先生、そのうちの奥さんがさぁ、また死にたいなんて言うんだ。酷いだろ? もう何回目だか分からない。だから言ってやったんだ。だったらオレも連れて行けって。そしたらさぁ、なんて言ったと思う? 先生。あいつ、貴方には生きていてほしいって言ったんだ。そりゃ、あんまりだ、あんまりじゃないか……なぁ先生……」
正気を取り戻し、声を震わせ悲嘆に暮れた。
これが白石晃という男の本性なのであろう。
あまりに不憫だ。
分かっているから涼太はこうして夫婦のために家まで連れ添っている。
「先生からも言ってやってくれよ、あいつに。オレではもう無理だ。信子が死にたがっているのをオレではどうしても止めることができない」
「とにかく部屋に行きましょう。奥さん、信子さんは中にいるんですよね?」
はい――涼太の背後に立っていた和人の耳に、返事がか細く聞こえた。
一階と二階ともに部屋は四室ある。
部屋名が一号室二号室、三号室と続いて、多くの集合住宅に不吉な数字として「四」の数字はあてがわれず、三号室に続いて五号室の表示が木のドアに墨で書かれている。表札はないが白石夫妻の部屋は軋む廊下の一番奥の五号室のようだ。
男三人が歩く廊下はまるで廃校舎のように薄暗く軋み、大の大人が歩いたら今にも床が抜けそうな不安を覚えるには丁度いい、薄気味悪い陰湿な廊下だった。
白石は自分の家の扉の前で一瞬立ち止まって中の様子を伺ったが、部屋の中から物音はなく人の気配も感じられない。
三人は緊張感を持ったが白石の妻を呼ぶ声に反応するように、わずかに空気の流れを覚え涼太は小さく安堵した。
「信子、帰ったよ」
ドアノブに手をかけたが鍵が掛かっていることに白石は驚いた。
「あ――あれ?」
「どうしました?」
「いつもオレが出掛ける時は鍵なんて掛かっていない筈なんだけど。お、おい、信子?」
たどたどしくノックをしたが中からの返答はしかし無かった。
慌ててズボンのポケットをまさぐって、なかなか鍵を取り出せない。
「ごめんください。林クリニックの者です。いらっしゃいますか?」
中から物音が聞こえ、三人は部屋に信子がいると確信した。
なのに返事がないのはどういうことだ――和人は額から厭な汗が滲み出てくるのを感じた。
「様子がおかしい」
経験がある。
――これは良くない。
「え?」
勘だ。
昔からの直感が早鐘を打った。
「おい、信子?」
鍵を回して玄関ドアが開かれた瞬間、部屋の中から、ゴン――と大きな物音がした。
「信子?」
ぎぎぎ――。
鈍い軋み。
ぎぎぎ――。
暗い部屋の中。
ぎぎぎ――ぎぎぎ――。
「信子?」
カーテンは全て閉め切られ、はっきりと中が見えない。
「信子さん?」
ぎぎぎ――ぎぎぎ――……。
揺れていた。
ぎぎぎ――。
ぎぎぎ――ぎぎぎ――。
三人は併せたようにゆっくりと口を開けた。
「……――」
影が。
ぎぎぎ――ぎぎぎ――。
ゆっくり。
大きく左右に。
「の……ぶこ……?」
揺れていた。
人が。
ぎぎぎ――ぎぎぎ――。
大きく、大きく――。
天井から、ぶらり――ぶらり――と。
髪の毛を伸ばしっきりのボサボサの頭が揺れている。
「信子――信子!」
白石は天井からぶら下がる女の足元に駆け寄り縋り付いた。
「信子、信子!」
「涼太、救急車を!」
「あ、ああ!」
玄関のすぐ右手に置いてあった黒電話に齧り付き、涼太は震える手で受話器を握り絞めた。
首吊りの光景は慣れることはないが、涼太は職業柄幾度と見ている。だのに今こんなに身体が震えているのは、つい先程首を吊ったと思われるからだ。
生きていた人。
温もりが残っている。
まだ頬に赤みがあり、もしかしたら――。
間に合うかもしれない――和人は縋り咽び泣く白石を押し退け、裸電球に結ばれたロープから信子を引き摺り降ろした。
首には深くロープが喰い込み、痕がくっきりと赤黒く残っている。
息はしていない。
「人工呼吸の仕方は?」
首を横に振る白石に、失礼しますよ――と、心臓マッサージと人工呼吸を始めた。
「う、嘘だろ、嘘だろ、信子っ」
妻の足元に白石は縋りつき泣き叫ぶ。
どれくらい心臓マッサージを続けていたろうか、遠くから救急車のサイレンが聞こえて来た。
「和、もう」
くそっ――それでも和人の手が止まることはない。
目の前で死なれたのだ。
人の死は幾度となく経験していても慣れるものではない、ましてやまだ温かい肢体を掌に感じる。
涼太に肩を叩かれても救急車が到着しても手を止めることはなかった。
白石と信子が救急車で運ばれ、二人きりになったところでようやく和人は冷静さを取り戻し、四畳半の狭い空間を見回した。
くすんだ畳。
奥に古びた箪笥があり、部屋の中央にはささくれだらけの小さい丸いちゃぶ台。
そのちゃぶ台を土台にして信子は首をくくったのだろうと予想される。
部屋はそれだけだった。
「大丈夫か、和」
「ああ、すまない」
いや――涼太はそれ以上言葉が浮かばず、濁すに留まった。
ほんの数分、物言わなくなった死体があっただけでも、この小さな部屋に死臭が立ち籠っている気がして涼太は思わず鼻を抓んだ。
「どうして帰ってくるのを待っていたんだろうな」
「ん?」
独り言のように誰に聞かせるでもなく呟いた和人の疑問を、幼馴染みは聞き逃さなかった。
「奥さん――信子さん、だったか」
ああ――涼太は悔しんだ。
「無事だと――良いんだが……」
「――警察、呼んだほうが良いだろうな」
「どうして。信子さんは自殺なんじゃ」
和人はその場にしゃがんで何かを摘まんだ。
「自殺未遂にしては変に手が込んでいる」
摘まんだ指先には細長い糸が見えた。
「そもそも、あんな短時間で心臓が止まるわけがないんだ」
糸は刺繡糸。色は赤。
豆電球のロープに繋がり、真下にぶら下がる信子の首に幾重にも巻き付いていた。
「え、なんで……?」
もう片方の糸の先は、開けっ放しの玄関ドアの内側のドアノブへと繋がっている。
「きっと自殺に見せ掛けた他殺。それに気付いていながら信子さんはそれに乗った。もしくは――」
ロープによる呼吸が絶止すると、少しでも多く息を吸い込もうとして呼吸が促迫し呼吸困難が一分から一分半続く。この間に気絶もあり得るが直後に起きる痙攣の症状は見られなかった。だとすると首を吊ったのはドアを開ける直前ではなく、もっと前だったのではないか。
どちらにしろ不確定要素が多すぎる――顎に手を宛てがい和人は考えた。
「和、何がどうしたって言うんだ」
絞殺だったとしてもロープや赤い糸による特有の交叉部の索条痕が無かった。
「いや、見逃したのか?」
完全に周囲の言葉も姿すら見えなくなった幼馴染みの頬を涼太は強く摘んだ。
「痛っ」
「これ以上は警察の仕事であって、もうお前の仕事じゃないんだ。考えるな」
「しかし、このままじゃ――」
裁かれるべき真犯人が野放しになってしまうかもしれない。
――真犯人……。
この夫婦にこれ以上の人間関係があるとは思えなかった。
二人だけ。
夫と妻だけ。
その妻が傍目からは自殺未遂に見える他殺されたとなれば、容疑者は一人しかいない。
警察が介入すれば一発で犯行が知れてしまうような仕掛けをわざわざするだろうか。
――それとも。
――それとも、もっと別の意味でもあるのか。
――本当にただの考えすぎか。
涼太の言う通り、これは和人の仕事ではない。
――もっと他に何か証拠になるようなものはないのか。
――もっと事件に関係のある……。
――もっと……。
「和、いい加減にしろ。警察を呼んだから任せるんだ」
怒りにも似た声に、さすがに思考を停止せざるを得ない。
そうだ自分はもう捜査する立場ではないんだ――和人は深く溜息を吐いた。
昔。
和人には人生を大きく変えざるを得なかった事件を経験した。
それはたとえ警察でも経験しないだろう残酷な出来事。
まさかその後、小説家になるとは微塵も考えていなかった。
「――そう、だな……」
十年程昔、和人は警察お抱えの私立探偵をしていた。
と、聞こえは良いが、警視庁捜査一課に所属する警部補の男に個人的に雇われていたようなもの。
最初こそ勿論他の警察関係者には疎まれていたが、事件を次々と解決していくうちに信頼関係は築かれ警部補の男以外の所でも声を掛けられるようにまでなった。
まだ十八歳、異例の若さでの採用である。
警部補の男と出会ったのも事件が切欠だ。
公私共に順風満帆とはああいうことを言うのだろうが、築いた多くの信頼関係は今の和人の手のひらには一欠片も残されていない中、あの男、警部補・高木誠への憎悪は微塵たりとも手離したことはなかった。
何が起きたのか。
和人は幼馴染みにすら多くを語ろうとはしないが、人が一人、死んでいることは分かっている。
それが和人の最愛の人だった。
ほのかに恋心を寄せ、どうしても告白に切り出せなかった淡く切ない日々。
それが『死』という永遠に想いを告げることが出来ない最果てへと、強制的に追いやられてしまった。
「どうした?」
幼馴染みとして涼太は心配なのだ。
今と昔、性格が変わってしまう程の出来事。
計り知れないものなのは分かる。
「いや、なんでもない。それより現場保存だろ?」
「ああ、そうだな――」
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