第2話
絵里香がお茶を飲み終えたタイミングを見計らって、僕は自分の湯呑みと彼女の湯呑みを片付ける。
そしてまた彼女と向かい合う形で椅子に腰を掛ける。それから僕はおもむろに口を開いた。
「さて、それじゃあそろそろ始めようか」
「……」
僕がそう告げるも絵里香は返事をしない。
ただじっと僕を見つめているだけである。
なので、僕は続けて彼女に指示を出す事とする。
「早速だけど、まずはいつも通りに深呼吸をしようか。それで落ち着いたら、僕の質問に答えて貰うから、そのつもりでね」
「分かった」
絵里香は小さく口を開くと、素直に僕の指示に従ってくれた。
ゆったりとした動作で息を吸い、それから時間を掛けて吐くという動作を繰り返す。その間、僕は彼女を黙って見つめていた。
そしてしばらくすると、絵里香は息を吐いて力を抜いた。
彼女の様子を見て大丈夫だと判断をした僕は再び口を開いた。
「それじゃあ質問させてもらうよ」
絵里香がこくりとだけ小さく首を縦に振る。
それを確認してから僕は早速問い掛ける事にする。
「絵里香は……そうだね。昨日はどんな事をしていたのか、話して貰えるかい?」
「うん」
絵里香が素直に返事をして、それからゆっくりと順序を考えながら話し出す。
「昨日は……」
「うん」
「ほどんど、家にいた」
「学校が終わってから、ずっと?」
「うん」
「そっか。じゃあ絵里香は家でどんな事をしていたんだい?」
そう尋ねると、絵里香は一度目を閉じて小さく息を吸い込んだ後で答え始めた。
「勉強と……散歩」
「そうか」
絵里香の言葉に僕は静かに頷いてから会話を続ける。
「その勉強って……具体的には、どの様な事をやっていたんだい?」
「今度のテストに出る範囲の予習」
「なるほど。絵里香は真面目だね」
「ん。ありがとう」
絵里香は僕の言葉に特に反応するでもなく、ごく自然な返事といった感じでそう答えた。
こうした他愛もない会話をする事、これが絵里香との特訓の一連の流れであった。
具体的に言うと、彼女との特訓とは人との対話である。
人によってはこれのどこが特訓なのかと思うだろうけれども、絵里香にとってはとても重要な時間なのだ。
彼女は感情が表に現れにくいのと、言葉が拙いせいで、他人とコミュニケーションを取るのがとても苦手である。
そのせいで彼女は友達と呼べる交友関係を築けず、孤独な毎日を過ごしていた。
そこで始めたのが絵里香とするこの特訓である。
同年代の生徒達とは違うけれども、より多くの会話を僕とする事で、他の生徒とのコミュニケーション能力の向上を目指しているのだ。
初めの頃は僕と会話するにしても何を話して良いか分からず、会話らしい会話はほとんど出来なかった。
しかし、これまでしてきた試行錯誤の中で徐々に会話が出来る様になり、最近ではこうしてある程度は気の許せる会話が出来る様にまでなった。
なので、絵里香の悩みも近い内に解消が出来るのではないか、と僕はそう密かに期待していたりする。
彼女が普通の学校生活を送れる日は、そう遠くないかもしれない。
「あと、散歩……というのは?」
「そのままの意味。勉強の合間の気分転換に、家の近くを歩いていた」
絵里香がやはり淡々とした口調で答える。
「昨日はね、星が綺麗だったよ」
「星?」
「そう、星。キラキラしていた」
「そうなんだ。それは良かったね。絵里香は星を見るのが好き?」
僕がそう尋ねると絵里香がこくりとだけ頷いて返事をした。
僕は笑顔を作りながらそれに相槌を打って続きを話す。
「僕も好きだよ。星が綺麗だと嬉しくて心が躍る気分になるから」
「うん」
「でも、最近は忙しくてあまり星を見ている余裕もなくてね。昨日も帰りは夜だったけど、空を見上げるなんてしなかったな。……うん、たまには夜空を眺めながら散歩をするのも悪くないかもしれないね」
「……」
僕の言葉に絵里香は静かに頷く。彼女の表情は相変わらず無表情ではあるものの、どことなく嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか?
「……だけど、絵里香。気分転換だとか星を見たいとかの気持ちは分かるけど、夜に一人で外を出歩いたりするのは危ないからね。そこは気を付けてね」
「うん、分かってる。けど、先生。心配しなくても大丈夫だよ」
「ん? それはどういう事かな?」
「だって、一人じゃないから」
絵里香の返事に僕は小さく首を傾げた。
その僕の反応に対して、絵里香は無表情なまま僕の顔を見つめている。
「私、一人じゃなかったから。何も一人で散歩する訳じゃないよ」
「あ……そっか。ごめん、僕の早とちりだったね」
絵里香の言葉を聞いて僕は慌てて謝罪をした。そして頭を掻きながら反省する。
もしかすると、散歩とは言っても親御さんと買い物に行ったその帰りだったかもしれない。
彼女が言った通りに絵里香が一人で出歩いている訳では無い可能性も十分に有り得るのだから。
「でも、夜は危ないから、本当に気を付けてね」
「うん。先生も、夜道には気を付けた方が良い」
「あはは。うん、そうだね。気を付けるよ」
絵里香が真剣な表情でそんな事を言うので僕は思わず苦笑してしまった。
この歳になって生徒にそんな心配をされるだなんて思ってもいなかったものだから。
けど、絵里香にそんな心配をされるという事は、僕は相当に危うい感じでもあるのだろうか。
とは言っても、僕みたいな冴えない人間が夜道に襲われるだとか、それこそ強盗だとか事故の可能性しかないと思う。
それに何より絵里香と違って僕は大人なのだから、それほどは気にしなくて良いだろうけれども。
「大丈夫だよ。先生が夜道を歩く時は、ちゃんと警戒をしているからね」
「……」
僕の言葉を聞いても絵里香は何だか納得のいかない表情をしていた。
どうして、そんな不安な目で見るのだろうか。
そんな時であった。ふと時計を見ると、そろそろ昼休みが終わろうとする時間に差し掛かってしまっていた。
「あ、もうこんな時間か。絵里香、今日はここまでにしよう」
「うん」
僕がそう告げると、絵里香は特に不満そうな表情を見せる事もなく素直に頷いた。
それから彼女は椅子を引いて立ち上がる。
「先生。今日もありがとう」
「いや、良いんだよ。僕も絵里香と話すのは楽しいからね」
「……私も、先生と話すの、好き」
「あはは。そう言ってもらえて先生は嬉しいよ」
僕がそう返すと絵里香は少しだけ小さく微笑んでくれた。
それはほんの僅かな表情の変化であったが、彼女の笑顔を見られた事に対して、僕も小さな満足感を覚えていたのだった。
何かと絵里香の事を悪く言う生徒もいるが、僕からすると彼女は言葉と感情表現が少し不器用なだけで、性格はとても素直で子供っぽさがあり、話している内に微笑ましくなる事も多い。
なので、早く絵里香がみんなと普通に会話が出来る様になって、それで彼女の魅力がみんなに伝われば、彼女の学校生活も今よりずっと良くなるだろう。
そうした明るい未来を想像しながら僕は彼女の頭を撫でた。
すると、彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべるも、すぐに気持ちよさそうに目を細め、僕の掌に頭を軽く押し付けてくる。
そうしてしばらくの間、彼女の頭を撫で続けているとふと彼女が顔を上げた。
僕はどうしたのだろうと思って彼女に視線を向けたのだが、その瞬間、彼女と目が合う。
じぃっと真剣な目でこちらを見つめている絵里香の姿に僕は息を呑んだ。
そのまま数秒の間、二人で見つめ合って居たが、不意に彼女が口を開く。
「ねぇ、先生」
「なんだい?」
「また特訓、してくれる?」
「ああ、もちろんだよ。絵里香が良ければ僕は構わないよ」
僕がそう返事すると彼女は嬉しそうに頬を緩ませてから頷いた。
「うん」
その返事を聞いた僕も自然と笑顔になる。
「それじゃ、教室に戻るね」
「うん。またね、絵里香」
絵里香は最後にもう一度だけ僕の目を見つめるとそのまま背を向けて歩き始めた。
僕は彼女が去っていく姿を静かに見送った。
「さて、僕もそろそろ仕事に戻らなくちゃ……」
そんな事を呟きながら僕は自分のデスクに戻ると、手を組んで頭上に持ち上げて伸びをする。
それから書類を取り出して、仕事に取り掛かり始めるのであった。
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