第2話
三日月
翌朝
晴人は教室に入ると、月詩(つくし)がいつもいる席に、少しだけ目を向けた。
朝日が差し込み、シニヨンヘアが淡く光っている。
周囲の女子たちが話しかける中、月詩は笑顔で頷いていた。
「おはよー、晴人」
佐藤が肩を叩く。
「おう」
「昨日のドラマ観たか?」
「昨日もバイトで見てないや」
晴人は短く返し、視線を戻す。
ポケットの中でしおりを触る。
まだ冷たい。
「なぁどうした? 聞いてる?」
「…悪い」
佐藤は肩をすくめ、自分の席に戻る。
教室はいつもの喧騒に包まれ、笑い声や雑談が響く。
晴人はチラリと時計を見る。
あと5分でHRが始まる。
「蒼井くん」
声がした。
顔を上げると、月詩(つくし)が立っていた。
「…何だ」
「昨日はありがとう」
「…別に何もしてない」
「しおり、受け取ってくれたでしょ?」
周りの視線がこちらに集まる気がした。
「そうだけど…それだけ?」
「うん」
月詩は首を傾げた。
「それだけ」
席に戻った月詩の周囲で女子たちが「何の話?」と訊くと、
「ちょっとした用事」と笑う。
晴人はしおりを握り、冷たさを手に染み込ませた。
⸻
昼休み。
晴人は購買でパンを買い、教室の隅で一人食べる。
校庭ではまだ半袖の生徒が走る。
異常気象は続く。
「蒼井くん、一人?」
月詩が隣に座った。
その瞬間、晴人は一瞬、涼しい風が吹いたような気がした。
教室の空気はまだ蒸し暑い。でも、彼女の近くは少しだけ秋の匂いがした。
季節が、ようやく動き出したのかもしれない。
「…何で…」
「お昼、一緒に食べようかなって」
晴人の返事を聞くよりも先に座り、自身で作ったと見られる、彩り豊かなおかずを丁寧に詰めた弁当を開く月詩。
周囲の視線がまた集まる。
髪を耳にかける仕草が、妙に目に残った。
「昨日のコインランドリー、助かった」
「…何が?」
「誰かがいてくれたから」
月詩は微笑む。
「一人だとちょっと怖くて」
「…そんな風には見えなかった」
「そう?」
首を傾げる。
「演技、上手かったかな」
晴人は眉をひそめる。
昨夜と同じ反応だ。
「お前、変だろ」
「そうかも」
月詩は笑った。
「よく言われる」
弁当を食べながら窓の外を見つめる月詩。
「蒼井くん、普段って何してるの?」
「…別に」
「うそ。バイト以外は?」
「家で勉強とか…」
「ふーん。家では一人?」
「…そうだ」
「そうなんだ」
微笑む月詩。
「ちょっと意外」
少し間を置いて、彼女は箸を置き窓の外を見る。
晴人は、冷凍庫に並ぶパックご飯と、母親のメッセージを思い出した。
「ご飯あるから食べてね」
それは優しさだった。
でも、どこか遠い。
月詩の言葉が、そこに重なる気がした。
「ねえ、月、好きなんだよね」
「…見てるだけ」
「私も見るよ。たまに」
目を細める。
「でも、やっぱり嫌い」
「なんで?」
「さあ」
首を傾げ、
「なんででしょう?」
試すようにニヤリ。
昨日と同じく繰り返す言葉。
晴人はパンの袋を丸めて机に置いた。
「お前、本当に変だ」
「変でもいいじゃん」
月詩は笑う。
「変な人の方が面白いよ」
弁当を食べ終え、小さな弁当箱を閉め、立ち上がる。
「ごちそうさま。また明日ね」
と友達のもとへ。
晴人は窓の外を見る。
何なんだ、あいつ。
放課後
原付でバイト先へ向かう途中、晴人は歩道に月詩の姿を見つけた。
制服姿でカバンを持ち、微かに手を振る。
「…何してんだよ」
「歩いてる」
微笑む月詩。
「家、この先だから」
「…そうか」
「蒼井くん、バイト?」
「ああ」
「大変だね」
「…別に」
「家では、いつもこんな感じ?」
「…そういうの、気にするな」
「ふふ」
笑う月詩。
「ちょっと気になるだけ」
空を見上げる月詩。
「もうすぐ日が暮れますね」
「…そうだな」
「夜になると、ちょっと変わる気がする」
「…何が?」
「世界」
窓の外を見つめ、微笑む。
「昼と夜って違うよね」
「当たり前だろ」
「違う」
首を振る。
「私も、ちょっと変わるかも」
「…どういう意味だ」
答えず、夜空を見上げる月詩。
晴人は横顔を見た。
三日月の光が差し込み、輪郭を柔らかく照らす。
⸻
夜
バイトを終えた晴人は、原付でコインランドリーへ向かっていた。
洗濯機はまだ壊れたまま。
空には三日月が浮かんでいる。
昼間の月詩の言葉が、頭の中で繰り返されていた。
コインランドリーの灯りは、夜の静けさの中で妙に明るく見えた。
扉を押すと、洗濯機の回転音が響き始める、
そして、彼女はいた。
制服姿で、ベンチに座っている。
飲みかけの缶を両手で包みながら、窓の外を見ていた。
「おやおや、また会いましたね」
月詩が微笑む。
「…偶然だな」
「ねえ、蒼井くん」
少し間を置く。
「実は、君に一つ、言いたい事があります」
「…何だよ」
晴人は、眉をひそめる。
「私のこと、『お前』って呼ぶの、やめてほしいな」
月詩がニヤっとした目。
「女の子に嫌われるよ?」
「…は?」
「ふふ、冗談だよ。ちょっとだけ本気かも」
と笑う。
「ねえ、名前で呼んでみてよ。月詩、で」
「…急に何だよ。嫌だよ」
晴人は目を逸らす。
胸がドキリとする。
「いいじゃん、試してみてよ」
月詩が首を傾げる。
「私も、晴人君って呼ぶから」
「…」
口の中で「月詩」と呟いてみる。
変な感じだ。
でも、言われてみたら確かに人のことを名前で呼ぶことはなかったかもしれない。
「ほら、ちゃんと呼んで!」
月詩が笑う。
缶の結露が、彼女の指を伝って垂れる。
晴人の手は、じんわりと汗が滲む。
「…月詩」
と晴人、気恥ずかしい。
声は自然と小さくなる。
「おぉ! いい感じ!」
月詩が嬉しそうに、目を細める。
「これから、晴人君、ね」
晴人はタオルを差し出す。
「…缶、拭けよ。水滴がすごい」
「ありがと、晴人君」
彼女に手渡す一瞬、指先が異様に白く見えた気がする。
だが、受け取った後の女の子らしい仕草に、晴人は目を逸らす。
「…優しいねぇ」
と月詩は言いながら、微笑む。
「…別に」
と返すけど、こんなこと、初めてだ、と心の中で思う。
「三日月、きれいだね」
と月詩、窓の外を見る。
「私には、消えそうに見える。この秋、なんか変だよね」
「…消えないだろ。これから満ちてくんだから」
「ふふ、そうかなぁ」
と月詩、微笑む。
「毎日、家のこと大変じゃない? 晴人君、いつも一人で頑張ってるよね」
「…別に」
と返す。
ふと母親のメッセージを思い出す。
いつも最低限のやり取りだけ。
最後に面と向かって話したのはいつだったか…。
本当に大変なのは母なのかもしれない。
「明日も来る?」
月詩は優しげに尋ねる。
その目は、何を期待しているのか。
「…ああ。壊れたから、買い換えるまでしばらくは」
月詩が立ち、洗濯物を取り出す。
「タオル、明日返すね。じゃあね、晴人君」
自動ドアをくぐる瞬間、彼女の輪郭が月光と蛍光灯に溶けるようにブレた。
蝉の鳴き声が一瞬止まった気がする。
晴人は目を凝らす。
いつも通りの月詩が夜道を歩く。
気のせいだ。
だが、なぜだか違和感は、消えなかった。
⸻
家に帰り、晴人は窓の外を見る。
三日月が浮かぶ。
細く、消えそうな光。
スマホで撮り、写真フォルダを開く。
昨日の月から、少し満ちた三日月。
ポケットからしおりを取り出し、月の模様を指でなぞる。
頭の中で、月詩の声が響く。
「私には、消えそうに見える」
何なんだ、あいつ。
あんなに明るいくせに。
そんな事、言う奴じゃないだろう。
しおりを握る。
冷たいしおりが、手のひらを冷まし、気持ちを落ち着かせる。
そういえば、女の子に名前で呼ばれるなんて、小学生の頃以来だ。
どこか気恥ずかしい気持ちを残したまま、今日が終わる。
―三日月、終わり―
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