月のしおり

Binki

第1話

新月


 


10月だというのに、教室はまだまだ蒸し暑い。

窓から蝉の鳴き声が響き、まるで夏が居座ってるみたいだ。

ニュースでは異常気象だと騒ぐが、晴人には関係ない。

いつもの秋が戻ればいい。

それだけだ。


 


晴人は机に突っ伏し、スマホを弄る。

母親からのメッセージ。


 


「明日の朝まで夜勤です。ご飯冷凍してあるから、チンして食べてね。それまで寝かせてもらうね。」


 


既読をつけ、返信はしない。

いつものことで、悪い関係じゃない。

ただ、話す理由が見つからない。

そのままポケットにスマホをしまう。


 


すると、友人の佐藤が教科書で顔を仰ぎながら声をかけてくる。


 


「おい、晴人。10月なのに暑くね? まだまだ蝉もうるせえし、いつもの秋はどこいったんだよ」


 


「…そうだな」


 


晴人はぶっきらぼうに返す。

佐藤は気が合うバイト仲間で、口数の少ない俺によく声をかけてくれる。


 


教室のドアが開き、秋葉が笑顔で入ってくる。

いつものシニヨンヘア、優しげで少し垂れた目元。

明るくて、クラスの人気者。


 


女子たちが「あ、月詩(つくし)おはよ!」と声をかけ、彼女は笑いながら駆け寄る。


 


「おはよー、みんな元気?」


 


彼女が笑うことで、周りが華やかになる。

自分とは違う人種。そう思っている。


 


月詩が席に着くと、隣の女子がすぐに話しかける。


 


「月詩、今日の授業あてられそうだけど大丈夫?」


 


「何とかなるでしょ! あ、詰まったらこっそり教えてね」


 


彼女が話すと、笑い声が響く。

晴人は視線を外す。

クラスメイトではあるが、話したことなんてない。

屈託のない彼女の笑顔は、どこか遠い。


 


「この暑さ、何だか変だよね。秋なのに」


 


月詩が言う。

笑顔のまま、静かな口調。

晴人はチラッと彼女を見る。

何か、引っかかる。

けど、すぐに佐藤が笑う。


 


「だよなぁー異常気象、マジうぜぇ」


 


教室のざわめきに紛れる。


 


放課後。

晴人はコンビニのバイトを終えて家に帰る。

原付に跨り、いつもと同じ…。

だが、今日は違った。


 


「まじかよ…」


 


洗濯機が壊れた。

電源もつかず、動く気配がない。


 


「…また面倒が増えた」


 


親父が出て行く前から使ってたやつだ。

思い出したくもない。


 


記憶を辿り、5分ほど走った先にコインランドリーがあったことを思い出す。

洗濯物をカゴに詰め、原付で向かう。


 


街は10時を過ぎると静まり返る。

新月の夜、月の明かりすらない。

街灯もまばらで、田舎の暗さが身にしみる。

虫の大合唱の中、原付は乾いた音を立てながら進む。


 


少し走ると、煌々と灯りを放つ年季の入ったコインランドリーが見えてきた。

入口近くに原付を止めて中に入る。


 


中には誰もいない。

こんなんで運営大丈夫か? と余計なことを考えながら、壁の案内に沿って洗濯物を入れる。

洗剤も自動で入れてくれる。

助かる。


 


洗濯機が動き出すと、晴人はベンチに腰かける。

スマホを取り出し、母親にメッセージを送る。


 


「洗濯機壊れた。とりあえずコインランドリーで洗ってる」


 


画面を消し、窓の外を見る。

街灯に照らされた駐車場の向こう、黒い空。

新月の空だ。


 


洗濯機の回転音が、静かな空間に響く。

落ち着く静けさ。

晴人はイヤホンを取り出そうとして

――


「わぁ」



声がした。

振り向くと、自動ドアの前に女子生徒が立っていた。

見覚えのある制服姿。

同じ学校の生徒だ。


 


シニヨンにまとめた髪。

優しげで、少し垂れた目元。

秋葉だった。


 


「こんばんは」


 


月詩は軽く会釈して、洗濯カゴを抱えたまま店内に入ってきた。

その時、外で鳴いているはずの虫の音色が一瞬、途切れたような気がした。


 


「…こんばんは」


 


晴人は短く返した。

そしてすぐに視線を洗濯機に戻す。

それ以上会話する理由もない。


 


月詩は隣の洗濯機に洗濯物を入れ始めた。

制服のブラウス、タオル、靴下。

手慣れた動作で、黙々と作業を進めている。


 


晴人はスマホを取り出して、写真フォルダを開いた。

前に撮った月の写真。

上弦の月が、街灯の明かりに負けそうなほど薄く光っていた。


 


残したい瞬間を切り取る癖が、いつの間にか身についていた。

特に月は、何度撮っても飽きない。


 


「月、好きなんですか?」


 


突然、声をかけられた。

顔を上げると、月詩が洗濯機のボタンを押しながら、こちらを見ていた。


 


「…見てただけ」


 


「ふふ、そうなんだ」


 


月詩は微笑んだ。

柔らかい笑顔。

クラスの人気者らしい表情だと、晴人は思った。


 


「私、月はなんか嫌いなんだ」


 


月詩が呟いた。

目を伏せ、一瞬黙る。


 


晴人は驚く。

教室の彼女が何かを嫌いと言うのは、初めて聞いた気がした。


 


「…なんで」


 


「さあ」


 


彼女は首を傾げる。


 


「なんででしょう?」


 


笑顔のまま、どこか冷めた響き。


 


洗濯機が回り始めた。

ゴトゴト、ゴトゴト。

水の音が重なる。


 


月詩は洗濯カゴを床に置き、腕を上に伸ばす。

そして、ふぅ、と一息ついてから、隣のベンチに座った。


 


「まだまだ暑いね。十月なのに」


 


「…そうだな」


 


「蝉も沢山鳴いてるよね」


 


「あぁ」


 


「変なの」


 


月詩は窓の外を見た。


 


「秋なのに、夏みたい。なんか、ズレてる気がします」


 


晴人は返事をしなかった。

異常気象だ。ニュースでも取り上げられている。

 


だが、彼女の口調には、それだけではない気がする。


 


「私も、ちょっとズレてるのかも」


 


月詩がポツリと言った。

晴人は顔を上げた。


 


「…どういう意味だ」


 


「ん?」


 


月詩は振り向いて、首を傾げた。


 


「…あれ、私何か言いましたっけ?」


 


無邪気な笑顔。

さっきの呟きは、なかったことになっていた。


 


晴人は口を閉じた。

聞き間違いだったのかもしれない。


 


沈黙が戻る。

聞こえるのは洗濯機の音、外から漏れる蝉の声。

そして漂う、生温かい空気。


 


月詩は立ち上がって、自動販売機に向かった。

コインを入れて、冷たい緑茶を取り出す。

プシュッと缶を開けて、一口飲んだ。


 


「蒼井くん、だよね」


 


月詩が振り返った。


 


「…ああ」


 


「同じ学校なのに、こんなところで会うなんて不思議」


 


月詩は微笑んだ。


 


「偶然って、面白いですね」


 


晴人は頷いた。

偶然。

それ以上でも、それ以下でもない。


 


月詩はベンチに戻って、缶を両手で包んだ。

しばらく黙って、洗濯機を見つめている。


 


「ねえ、蒼井くん」


 


「…なんだ」


 


「もし、誰かがいなくなっても、その人のこと覚えていられますか?」


 


晴人は眉をひそめた。


 


「急に何だ」


 


「例えば、だけど」


 


月詩は缶を傾けた。


 


「ある日突然、誰かが消えちゃったとして。でも、その人を覚えてるのが自分だけだったら。寂しくない?」


 


「…意味がわからない」


 


「ふふ、だよね」


 


月詩は笑った。


 


「変なこと言っちゃいました」


 


彼女は立ち上がって、ゴミ箱に缶を捨てた。

そして、洗濯機の前に戻る。

まだ時間は十分以上、残っている。


 


晴人は視線を戻した。

自分の洗濯機は、あと5分で終わる。


 


月詩がポケットから何かを取り出した。

小さな紙片。

しおりのようだ。


 


月の模様が描かれている。

満月、三日月、上弦、下弦。

手描きの線が、繊細に月の変化を表現していた。


 


「これ、好きなんだ」


 


月詩がしおりを見せた。


 


「…ただのしおりじゃん」


 


「そうですけどー…」


 


月詩は微笑んで続ける。


 


「月の模様、きれいじゃないですか?」


 


晴人は答えなかった。

確かに、丁寧に描かれている。

だが、それだけだ。


 


月詩はしおりを指先で弄んだ。

くるくると回して、光に透かす。


 


「例えば、だけど」


 


月詩が言った。


 


「これで私のこと、忘れないでしょ?」


 


晴人は顔を上げた。

月詩が、ニヤついた目でこちらを見ていた。

無邪気な笑顔のはずなのに、どこか計算されたような――

そんな印象を受けた。


 


「…何が言いたいんだよ」


 


「何も」


 


月詩は笑った。


 


「ただ、そう思っただけです」


 


彼女はしおりをポケットに戻そうとして――

手が滑った。


 


しおりが、床に落ちた。

カラン、と小さな音。


 


月詩は身をかがめて、しおりを拾い上げた。

そして、そのまま晴人の方に歩いてきた。


 


「はい」


 


しおりが、差し出された。


 


晴人は目を瞬いた。


 


「…俺のじゃない」


 


「知ってます」


 


月詩は微笑んだ。


 


「これあげる」


 


「…大事なものなんじゃないの?」


 


「そうですけど」


 


月詩は首を傾げた。


 


「これで私のこと、忘れないでしょ?」


 


晴人は眉をひそめた。

さっきと同じ言葉。

なんだこいつ?


 


月詩は、しおりを晴人の手のひらに置いた。

すぐに手を引いた。


 


手に置かれたしおりからは冷たい感触。

紙のはずなのに、氷のように冷たかった。


 


「…忘れないでほしいなぁ」


 


月詩がポツリと呟いた。


 


晴人は顔を上げた。

だが、月詩はもうベンチに戻っていた。

さっきの呟きは、聞こえなかったかのように。


 


洗濯機が止まった。

晴人の分だ。


 


晴人は立ち上がって、洗濯物を取り出した。

しおりを握ったまま、作業を進める。

手のひらの冷たさが、妙に気になった。


 


洗濯物をカゴに入れて、振り返る。

月詩は相変わらず、洗濯機を見つめていた。


 


「じゃあな」


 


晴人は短く言った。


 


「はい、おやすみなさい」


 


月詩は振り返って、微笑んだ。

優しげで、どこか寂しげな笑顔。


 


外に出ると、また蝉の音が耳にまとわりつく。

晴人はポケットのしおりを握る。

月の模様が、街灯の光で薄く浮かぶ。


 


月詩の「忘れないでほしいなぁ」が、頭に響く。

あの秋葉が、寂しいなんて言うなんて。

クラスの人気者、いつも笑顔なのに。


 


胸の奥が、妙にざわついていた。


 


原付で走りながら、空を見上げる。

新月の夜。

月は見えない。


 


無いのは分かってるのに、無意識に探してしまう。

どこかに月はある。

見えないだけで、確かにそこにある。


 


家に着くと、しおりを手に取り、もう一度見つめた。

新月、三日月、上弦、満月、下弦。

冷たい紙に、指先で触れる。


 


月詩の声が、静かに響く。

まるで、消えそうな月の光を、そっと握りしめているようだった。


 


寂しいなんて、あいつに無縁そうなのに。

結局、からかわれただけかな。


 


静かな夜。

蝉の音だけが、遠くから聞こえた。


 


新月 終わり

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