第29話 卒業と進路
春がやってきた。
雪の代わりに花びらが舞い、
空気が少し甘くなった。
校庭の桜が咲き始め、
教室の窓辺をやわらかな光が満たしていた。
黒板の端には、
白いチョークで《卒業式まであと3日》と書かれている。
クラス全員がどこか落ち着かず、
笑い声とため息が入り混じっていた。
綾女は、窓際の席で静かに手帳を閉じた。
そこには、小さく書かれた文字。
——「世界を見て、世界を返す」
それが彼女の進路希望だった。
---
式当日の朝。
風は冷たいが、
日差しはやわらかい。
体育館の扉が開き、
花の香りと拍手の音が同時に流れ込む。
壇上での名前の呼び上げ。
「綾女——」
一歩前へ。
壇上の光がまぶしい。
受け取った卒業証書は、
思っていたよりも重く、
手の中に確かな現実として存在していた。
彼女は、
「おめでとう」という言葉の波の中をゆっくり通り抜けた。
光が彼女の黒縁のレンズに反射し、
ひとつのきらめきとして天井に跳ね返った。
それを見て、
凛花が微笑んだ。
---
式のあと、
校庭の桜の下で二人は並んで立っていた。
制服の襟元を風が揺らし、
空は透きとおるような青。
「終わったね。」
「はい。」
「……泣かないんだ。」
「泣いたら、世界が滲みますから。」
凛花が少し笑った。
「相変わらずだなぁ。」
沈黙。
校舎の方から、
クラスメイトたちの写真を撮る声が聞こえる。
風が、桜の花びらを一枚ふわりと運んできた。
綾女はそれを指先で受け取る。
薄い、儚い、
それでも確かに“ここにある”花弁。
「……この花、
去年は怖くて見れなかったんです。」
「どうして?」
「色が強すぎて。
でも今は、ただ綺麗だと思えます。」
「それ、卒業証明書より価値あるね。」
綾女は笑って頷いた。
「きっとそうですね。」
---
帰り道。
二人は駅までゆっくり歩いた。
制服のポケットには、
卒業アルバムと小さな封筒。
封筒の中には、
カフェ〈ヒナタ〉の店長から届いた手紙が入っていた。
《もしよかったら、新しい店を一緒に手伝ってくれませんか。
“窓辺”って名前にしました。》
綾女はその手紙を凛花に見せた。
「……見てください。」
凛花は目を丸くして、
すぐに笑った。
「ほんとに? “窓辺”?」
「はい。
店長さん、名前の由来を覚えてたみたいで。」
「……やばい。
これ、運命案件だよ。」
「運命、ですか。」
「うん。
“食べていける宣言”、覚えてる?」
綾女は頬を染めた。
「……忘れるわけないです。」
「じゃあ、実行しよう。
二人で“窓辺”を開く。」
綾女の胸の奥が熱くなる。
風がその熱をやさしく包んだ。
---
翌日。
春風が吹く新しい街。
カフェ〈窓辺〉の前に、
まだ看板を掲げたばかりの小さな木のドア。
ガラスの向こうには、
丸いテーブルと窓際の席。
外の光が、柔らかく差し込んでいる。
凛花が店の前で両手を腰に当てた。
「さて、はたらく練習の続き。
今日から、開店練習ね。」
綾女は笑って、
エプロンの紐を結んだ。
「了解です、店長代理。」
「店長代理はあやめだよ。」
「いえ、わたしは“窓管理担当”です。」
「なにそれ。」
「窓を開けるか閉めるかで、
世界の見え方が変わりますから。」
「……その役職、最高だね。」
二人の笑い声が、
開いた窓から春風に乗って流れ出した。
外の桜がその音に応えるように、
花びらを一枚、ふわりと室内へ運び込む。
---
夕方。
店内は少しだけオレンジ色に染まっていた。
テーブルの上に置かれたマグカップ。
蒸気がゆらゆらと揺れ、
その向こうに凛花の笑顔がある。
「ねえ、あやめ。
卒業しても、
“見る練習”やめないでね。」
「やめません。
見ることは、生きることですから。」
「……それ、今日の名言。」
凛花がカップを軽くぶつける。
カチン、と小さな音。
その音が、
彼女たちの新しい生活の始まりの合図だった。
綾女は、窓の外に広がる光を見た。
街の人々が行き交い、
その一人ひとりの顔が、
もう怖くなかった。
——“窓”の向こうに、
世界がちゃんと生きている。
そして、その世界の中で、
自分もまた“見られている”。
その事実が、
彼女にとって何よりの祝福だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます