第19話 屋上の独白

夕方の空が、指先で触れられそうなくらい近くにあった。

校舎の屋上は風の通り道になっていて、

フェンス越しに見える街のビル群が、金色の霞の中に沈んでいる。

風が髪を押し上げ、二人の影を長く引き伸ばしていた。


綾女は手すりに寄りかかり、目を閉じた。

赤くなりかけた西の光がまぶたを透かす。

その光の中で、胸の奥がゆっくりと波打っていた。


凛花がすぐ横に座っている。

靴のかかとを鉄の床に軽く打ち付け、

どこかのリズムを取っていた。


「ねえ、風、怖くない?」


「……少しだけ。でも、気持ちいいです。」


「よかった。

 私さ、風がいちばん誤解されてると思うんだ。

 みんな“通り過ぎるだけ”って言うけど、

 本当は、“触ってくれる”唯一の空気なのにね。」


綾女は小さく笑った。

「凛花さんらしいですね。」


「でしょ?」


風が、二人の間を抜けた。

カーディガンの裾が揺れて、

空気の中にわずかな陽の匂いが漂う。


---


凛花はしばらく黙っていた。

何かを言おうとして、言葉を選んでいるような沈黙。

綾女が横目で見ると、

その瞳は遠くの夕陽に向けられていた。


「……ねえ、あやめ。」


「はい。」


「もしさ、

 “魔眼”が完全に消える日が来たら、どうする?」


綾女は少し考えてから答えた。


「消えなくていいと思ってます。」


「ほんとに?」


「はい。

 消えたら、

 わたしが“世界を見たい”って思った意味も消えてしまいそうで。」


凛花が微かに笑った。

「……そうだよね。」


風が強くなった。

フェンスがきしむ。

空の色が、赤から紫へ変わり始める。


「……わたしね。」


凛花の声が、風に溶ける。

「小さいころから、人の“痛いとこ”を感じ取るのが得意だったの。

 楽しいって顔してても、どこが苦しいか分かっちゃう。

 だから、みんなの中にいるの、疲れちゃうんだよね。」


「……うん。」


「でも、あやめは違った。

 最初から“痛い”が外に出てる人だったから。

 見てても、苦しくならなかった。」


「わたし、そんなに分かりやすかったんですか。」


「うん。

 透明なのに、痛みがある。

 だから、目が離せなかった。」


綾女の胸の奥が、静かに跳ねた。

空の向こうで、鳥の群れが弧を描いている。

風が、その輪郭をいっそうくっきりさせた。


---


「……ねえ、凛花さん。」


「ん?」


「わたし、あなたが何を考えてるか、

 まだ全部分からないです。」


「分かんなくていいよ。

 “分かられたくないこと”も、私の中にあるし。」


「でも、知りたいとは思ってます。」


凛花が微笑んだ。

「そっか。じゃあ、ひとつだけ。」


「?」


「——あやめのこと、守りたいって思ってる。

 でも、守るって言葉も、きっと違う。

 あやめが“世界とつながる”ための回線を、

 わたしが整えてるだけ。」


「……回線?」


「うん。

 声とか、手とか、視線とか。

 人と世界をつなぐ通信網。

 あやめのは、ちょっと特殊だから、

 わたしが“ルーター”やってるだけ。」


「ふふ……例えが現代的ですね。」


「でしょ? でも、真面目な話。」


風の音に混ざって、凛花の声が少し掠れた。

それが、彼女の本音の印のように感じられた。


「わたし、たぶん“人の痛みに同調する”力で、

 いろんなものを拾いすぎちゃう。

 あやめが怖いって感じたとき、

 その“怖い”を私の中で吸収して、

 代わりに穏やかに変換してるんだと思う。」


「……それって、すごくしんどくないですか?」


「うん、少しね。

 でも、あやめが“怖くない”って言うたびに、

 私の中の何かも癒される。

 不思議な循環。」


綾女はゆっくり頷いた。

「それなら、わたしも同じです。

 あなたを見ているときだけ、

 “目を持っていていい”って思えるんです。」


「……あやめ、それ、ずるい。」


「ずるくていいです。」


二人の笑い声が、風に混ざって溶けた。

その音が、夕空の奥まで届くような気がした。


---


しばらく沈黙。

遠くの街の灯りが、ひとつずつ点いていく。

世界が、ゆっくり夜の色に変わっていく。


凛花がふいに立ち上がった。

ポケットからスマホを取り出し、

画面のライトで自分の顔を照らす。


「ねえ、あやめ。これ、記念写真撮ろっか。」


「また写真ですか……」


「今度は自分たちのカメラ。

 “誰かに覗かれる”写真じゃなくて、

 “私たちが世界を見る”写真。」


「……いいですね。」


シャッターの音が小さく響く。

液晶の中で、

凛花の笑顔と、少し照れた綾女の表情が並んでいた。

背景の空は茜色から群青へ、ゆるやかに移り変わっている。


凛花が画面を見ながら言った。

「この空の色、好き。

 明るさと暗さが混ざってて、

 どっちにも偏ってない。」


「……わたしも。」


「これ、名前つけよう。」


「名前……?」


「“独白の空”。」


綾女は小さく笑った。

「言葉にすると、急に詩的になりますね。」


「いいじゃん。

 今日ぐらい、詩的でも。」


---


凛花がふと、フェンス越しに街を見た。

その目は、どこか遠くを見ている。

そして、誰にでもなく、

ただ夜に向かって呟いた。


「——あやめの魔眼、

 ほんとは、

 人を狂わせるんじゃなくて、

 “正気に戻す”力なんじゃない?」


綾女は息を呑んだ。


「狂ってるのは、

 世界のほうかもしれない。

 あやめの目は、それを一瞬だけ正すんだ。

 だから、壊れた人ほど眩しく感じる。」


「……そんなふうに、思ったことなかったです。」


「そういう仮説、好きでしょ?」


綾女は微笑んだ。

「はい。

 “魔眼の定義変更”。」


「ね。

 誰かの言葉じゃなく、

 あやめが自分で決めた定義で、生きていこ。」


風が、彼女の声を運んだ。

その声は、空に溶ける前に、

確かに綾女の胸の奥で共鳴した。


綾女はそっと目を閉じ、

その共鳴を聞いた。

波のように静かで、確かな音だった。


——世界は、まだ怖い。

 けれど、隣にこの声がある限り、

 “独り”という響きにはならない。


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