第16話 担任面談
午前の光が、教室の窓をすり抜けていた。
カーテンの隙間からこぼれる白い帯が、
机の上に細い影を作っている。
その光の中で、綾女は手のひらを見つめていた。
指先がまだ少し冷たい。
昨日の“鏡の五秒”で、自分を見つめることができたはずなのに、
今日はなぜか胸の奥がざわついていた。
それは“怖さ”ではなく、
次の段階に向かう前の**予感**に近い感情。
窓の外では、先生が誰かを呼ぶ声がした。
「——綾女、職員室まで来なさい。」
空気が少し張りつめた。
凛花が振り向く。
「大丈夫?」
「……はい。たぶん。」
「行っておいで。
あやめなら、もう壊れない。」
綾女は頷き、
机の上の新しい黒縁を指で押さえた。
それは小さな魔除けでもあり、
世界を透かす窓でもあった。
---
職員室は、いつもより静かだった。
昼休み前の時間、
先生たちはそれぞれ書類の山に埋もれている。
時計の針がゆっくりと動く音だけが聞こえた。
「——こちらへ。」
担任の中村先生が立ち上がり、
隣のカウンセラー室へ案内してくれた。
そこは狭いけれど、柔らかい光が入る場所だった。
壁には絵本のポスター。
小さな観葉植物が窓辺に並んでいる。
「座っていいわよ。」
綾女は深呼吸をして、
ソファの端に腰を下ろした。
中村先生は眼鏡を外し、目尻を少し下げて言った。
「最近、よく頑張ってるって、
他の先生方からも聞いてるのよ。
文化祭の準備も、最後までやり遂げたそうね。」
「……はい。
みんなのおかげで。」
「“みんな”の中に、凛花さんも含まれてる?」
綾女はうなずく。
「はい。
彼女がいなかったら、たぶん……今ここにいません。」
中村先生は微笑んだ。
「彼女、いい子よね。
少し心配になるほど人のことを見てるけど。」
「……分かります。」
「でね、今日は進路の話でもあるけど、
もうひとつ、学校としてあなたに提案があるの。」
綾女は少し身を固くした。
中村先生が一枚の紙を取り出す。
「スクールカウンセラーの先生が、
あやめさんの“視覚過敏”と“対人恐怖”の記録を見てね。
学校として、正式に“特別支援配慮”を申請できるの。
無理しないで、少しずつ社会に出られるように。
どう思う?」
綾女は紙の文字を見つめた。
《支援プログラム申請書》
きちんと印刷された文字が整然と並んでいる。
安心と同時に、
どこか“枠”に囲まれるような感覚もあった。
「……支援って、守ってくれるものですよね。」
「ええ、もちろん。」
「でも、
“守られている”って思うと、
また、世界が遠くなる気もします。」
中村先生はしばらく黙ったあと、
静かに頷いた。
「そうね。
でも、守るって“閉じ込める”ことじゃなくて、
“外に出るための橋”なの。
それを忘れなければいいのよ。」
「橋……。」
「ええ。
あなたが、自分で世界に渡れるようになるまでの橋。」
綾女は紙を見つめた。
それは「囲い」ではなく、
たしかに「橋」と呼べるものかもしれなかった。
「……分かりました。お願いします。」
「よかった。
それともう一つ。
凛花さんにも、少し話を聞きたいの。
あなたのサポート役として。」
「……彼女に、迷惑じゃないですか。」
「いいえ。
彼女、たぶん“聞いてほしい側”でもあるわ。」
その言葉に、綾女の胸が小さく痛んだ。
凛花の笑顔の奥に、いつも何かを押し込めているのを知っていた。
けれど、それを指摘することができなかった。
「……お願いします。」
中村先生が微笑んだ。
「ありがとう。
きっと、いい春が来るわよ。」
---
放課後。
綾女が教室に戻ると、
凛花が窓際で、外を見ていた。
オレンジ色の光が彼女の髪に透けている。
声をかける前に、
その横顔が少し寂しそうに見えた。
「……凛花さん。」
「おかえり。」
振り向いた笑顔は、いつもの明るさだった。
けれど、目の奥に疲れが隠れている。
「担任の先生がね、
凛花さんとも話がしたいって。」
「……あー、やっぱり来たか。」
「やっぱり?」
「うん。
最近ちょっと、
“人の気持ちを受信しすぎてる”気がしてたから。」
凛花は少し照れくさそうに笑った。
「私ってさ、いろんな人の感情をアンテナみたいに拾っちゃうの。
でも、ちゃんと“送信”するの苦手なんだよね。」
「……わたしに、“送信”してくれたじゃないですか。」
「そうだね。
あやめには、ちゃんと届く。」
「なら、それでいいじゃないですか。」
「……そう思う?」
「はい。
だって、わたし、あなたの声で生き返ったんですから。」
その一言に、凛花はしばらく言葉を失った。
沈黙のあと、
小さく笑って言った。
「……ずるいな、それ。
言われたら、もう頑張るしかないじゃん。」
綾女も笑った。
笑いながら、窓の外を見た。
夕陽が、屋上のフェンスを赤く染めていた。
「ねえ、凛花さん。」
「ん?」
「もし、あなたの“受信”が疲れたら、
今度はわたしが“送信”します。」
「送信?」
「はい。
あなたが誰かの痛みに触れすぎたとき、
わたしが“見てる”って光を、送ります。」
凛花は少し目を細めた。
その瞳の奥が、やわらかく光った。
「……じゃあ、受信モード、ちゃんと開けておく。」
二人の笑い声が、夕暮れの教室に溶けた。
風がカーテンを揺らすたび、
光がレンズの中で屈折して、虹のように滲んだ。
---
その日の帰り道、
空には薄い月が浮かんでいた。
綾女はポケットの中で支援申請の紙を握りしめながら思う。
——橋。
渡るためにあるもの。
支えるために架けられるもの。
その橋の向こうに、
凛花と一緒に見た“世界”がある。
彼女は小さく呟いた。
「きっと、春は怖くない。」
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