第14話 連絡

日曜日の午後。

風はあたたかく、窓の外で洗濯物が静かに揺れていた。

綾女の部屋には、午後の光が傾いて差し込み、

机の上のノートの端を白く照らしている。


机の横には、昨日もらったばかりの新しい黒縁のメガネ。

レンズ越しの光が、壁に反射して小さな円を作っていた。

まるで世界が呼吸しているみたいに、光が揺れている。


綾女はその光を眺めながら、

静かにペンを動かしていた。


——「明日、凛花さんに渡すリスト」


・予備レンズのサイズ

・写真現像のデータ確認

・文化祭の後片付けの分担

・……あと、伝えたいこと


ペン先が紙の上で止まった。

「伝えたいこと」と書いたあと、言葉が出てこない。

声にするにはまだ怖くて、

書くにはまだ確信が足りなかった。


そのとき。


——ピコン。


机の端のスマホが小さく震えた。

画面に「母」の文字。


数秒間、心臓の音が世界を満たした。

手のひらが冷たくなっていく。

“母”という単語は、もう何ヶ月も、怖い響きを持っていた。


綾女は迷いながらも、

深呼吸を一度して、通話ボタンを押した。


---


「……あやめ?」

母の声は、思ったよりも柔らかかった。

でも、その柔らかさの中に、

“また何かが起こるかもしれない”という緊張が潜んでいる。


「……はい。」


「元気にしてる?」


「ええ……まあ。」


沈黙。

お互いに、言葉の置き場所を探しているような間。


母の声が、少し震えた。

「あのね、再婚の件で……いろいろごめんなさい。

 あなたに辛い思いをさせたって、やっと分かったの。」


綾女は何も言えなかった。

電話の向こうの沈黙に、

湿った風の音が混じる。


「……あなたのこと、今も心配してる。

 でも、もう無理に戻ってこなくていいから。

 ただ、元気でいてほしいの。

 それだけ。」


母の声は、途切れ途切れに優しかった。

綾女は、喉の奥で何かが詰まるのを感じた。


「……ありがとう。

 わたし、元気です。

 ちゃんと、見えるようになってきました。」


「見えるように?」


「うん。……人も、世界も。」


電話の向こうで、

母が静かに泣いている気配がした。

その音を聞きながら、綾女の胸の奥に

あたたかい痛みが広がった。


「じゃあね、またいつか会いましょう。」


「はい。」


通話が切れる。

部屋の中が急に静かになった。

その静けさの中に、

どこか「解放された」音があった。


---


翌朝。

凛花が校門の前で待っていた。

ポケットに手を入れ、空を見上げている。

風が髪を少し乱して、

それを直そうともしない姿が、

いつものように無防備で、綾女の心を落ち着かせた。


「おはよ。

 顔、ちょっと違う。」


「え?」


「軽くなった。

 昨日、なんかあった?」


綾女は少しだけ笑った。

「母から、電話が来ました。」


「そう。……どうだった?」


「思ってたより、怖くなかったです。

 話しても、世界が壊れなかった。」


「うん。

 それ、ほんとにすごいこと。」


凛花はポケットから小さな袋を取り出した。

中には、**新しいレンズ**が入っていた。


「予備。

 あやめの“世界の予算”。

 壊れても、すぐ直せるように。」


綾女は受け取って、

その小さな透明の円を光にかざした。

太陽の光が反射して、指先で踊る。


「……壊れても、直せる。」


「そう。

 世界だって、関係だって、レンズだって。

 直すための部品は、ちゃんと売ってる。」


「凛花さんの言葉は、いつも現実的なのに、

 なんでこんなに、安心するんでしょう。」


「詩よりも、修理の方が生きるから。」


「……それ、わたしの座右の銘にしていいですか。」


「もちろん。」


二人は笑った。

朝の光が、レンズを透かして

地面に二つの丸い影を作る。

ひとつは綾女の、ひとつは凛花の。

二つの影が重なり、少しだけ濃くなった。


---


昼休み。

図書室の奥で、綾女は凛花に新しいメガネを見せた。

フレームの黒が昨日よりも深く見える。

それは、悲しみの黒ではなく、

**世界を見渡す黒**だった。


「……ねえ、凛花さん。」


「ん?」


「母の声を聞いても、怖くなかった。

 でも、ちょっと寂しかった。」


「それは、世界が戻ってきた証拠だよ。

 寂しさって、“生きてる”ってサインだから。」


「……そうなんですね。」


「うん。

 怖さも寂しさも、どっちも“まだ繋がってる”ってこと。

 断ち切らないで、生かしておけばいい。」


綾女は頷いた。

新しい黒縁の奥で、瞳が静かに光を拾う。

その光が、凛花の手の甲に反射して落ちた。


「ねえ、凛花さん。

 わたし、今なら“ありがとう”が言える気がします。」


「じゃあ、言ってみて。」


「ありがとう。」


「どういたしまして。」


凛花が笑い、指先で“—”を描いた。

綾女も親指でレンズを**トン**と叩く。

ふたりだけの合図。

外では風が通り、

図書室のカーテンが、光を透かして揺れた。


その揺れの中に、

綾女は“新しい日常”の気配を感じた。


——壊れても、直せる。

——見ても、もう壊れない。


その二つの事実が、

世界を穏やかに支えていた。


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