ガパオライスとミントジュレップ

 それから数週間、わたしは再就職までの休暇を旅行や習い事、実家への帰省などでそこそこ忙しく過ごしていた。トオルとあまり顔を合わせたくなかったし、とにかく東京を離れていたかった。トーキョー・クロスを見たくなかったのだ。

 この十年、当たり前の風景として慣れ親しんだはずの景色だったけれど、今はあの夢とともにわたしを憂鬱にさせる呪いと化していた。

 毎晩のようにあの夢でトーキョー・クロスの存在を押しつけられ、男の子の赤ちゃんを抱き、気味の悪いトオルと対峙し、荒唐無稽な冒険をしなくてはならなかった。

 でも目覚めてしまえば夢の断片しか思い出せなかった。それはまるで、昔一度見たうろ覚えの映画をランダムに切り取って、チラ見させられているような感覚だった。

 休暇も残すところあと一週間ほどになった頃、わたしは何の予定もないポッカリと空いた平日を何日か持て余すことになった。習い事の予定もなく、誰かと会う約束もなければ、読むべき本も聞きたい音楽もなかった。そしてトオルはといえば、しばらく帰宅するつもりはなさそうだった。

 他所で新しい恋人でも見つけてくれたのなら、わたしも気楽なのに……そんな事すら考えていた。かと思えば、別れるとなったらやっぱり悲しいような気もした。居たら気まずいけど、居ないとなんだか寂しい……などと思ってみたり、わたしもずいぶん身勝手なものだと自分に呆れたり──そんな風に悶々とする日々でもあった。


 そうやって過ごした日々の何日目かの朝、今までにないくらい事細やかなディテールに至るまではっきりと、あの夢を記憶したまま目覚めた。そこには徹夜で一冊の本を読み終えた直後のような疲労と興奮があった。

 そんなことは初めてだった。たいてい目覚めた時に憶えているのはほんの一部分で、それらの断片を後からつなぎ合わせて、おおよその全体ストーリーを想像するしかなかったのだ。

 でもこの朝は違った。見終わったばかりの映画について語るのと同じぐらいの精度と密度で、夢に見たことを語れる気がした。

──けさらんに行かなきゃ。

 それが目覚めて最初に思ったことだった。わたしは強い衝動を感じていた。

──今日しかない。今日話そう。けさらんぱさらんにわたしの夢物語を──と。

 時計は午前九時を回っていた。仕事をしていないとつい寝坊癖が出てしまう。カーテンを開けると眩しい青空が広がっていた。わたしはテレビもオーディオも消したまま、静寂の部屋で遅い朝食を軽めに摂り、身支度をした。余計な物を受け取って、せっかく夢の中から偶然持ち帰った物語を、たとえ一欠片たりとも溢して失うようなことはしたくなかったのだ。

 東京駅で電車を乗り継ぎ一時間、わたしは再び鎌倉駅に降り立った。ぱさらんに貰ったカードに描かれた略図を頼りに歩く。古い街は通りが狭く不規則にカーブしていて起伏もあり、略図通りとはいかなかった。それでもわたしは一度だけ曲がり角を間違えそうになっただけで、あっさりとカフェけさらんにたどり着くことができた。

 晴れた日中に見るけさらんは、たくさんの緑と花々に囲まれていた。駐車場の奥は畑になっていて、その奥には枇杷の木が見えた。ぱさらんが言っていた枇杷の木に違いなかった。さらに奥には雑木林と緩やかな山が続いていて、まるでお店が緑の森に抱えられているかのようだった。

 時刻は午後一時少し前。入口の脇には本日のおすすめランチが黒板に掲げられていた。日替わりメインはガパオライスだった。

 わたしは少し迷った。軽めとはいえ朝食が遅かったので、まだお腹は減っていなかった。食べきれずに残したりしたら申し訳ないし、お茶だけにしておこうか、などとわたしは迷った。またくだらないことで迷った。

 ここまで来ておいて、なにを些細なことで迷っているんだか……わたしは少し自己嫌悪しつつ決心して引き戸に手をかけた。引き戸は「カラカラカラ……」と今回も気持ちの良い音と感触を伴って開いた。

「いらっしゃいませ」

 ぱさらんの声が店の奥から響く。彼女は出来立てのガパオライスを運んでいる最中だった。店内にはバジルやガーリックも混ざったエスニックな香り、賑やかな音楽、そして客のざわめきがあった。四つあるテーブル席は既に満席、カウンターにも何人か客がいる。この前来た時とは店内の様相が一変していた。普通にランチタイムのカフェだった。

「エミさん! 来てくれてありがとう。カウンター席でもいいかしら?」

 ガパオライスを出し終わったぱさらんが駆け寄る。彼女はわたしのことをちゃんと覚えていてくれた。

「はい。構わないです」

 正面のカウンター席に案内され、この前のボックス席とは違う風景の店内を改めて眺めた。厨房でカズオさんが慌ただしく調理している様子が見える。今日も彼の耳が赤いのは照れじゃなくて、暑いから。頬に汗が光り、真剣なまなざしでフライパンを振る姿が格好良かった。

「今日のおすすめランチのガパオライスはね、自慢じゃないけど本当に美味しいのよ」

 ぱさらんはメニューとお冷、おしぼりをセットしながら自信ありげな笑顔でガパオライスを勧めてくれた。でも彼女の推薦に関わりなく、店内に漂うエスニックな香りに反応したわたしのお腹は、すでにガパオライスを欲していた。ついさっきまで小腹も空かずお茶だけにしようかと迷っていたことは既に忘れていた。

「うん、この匂いがたまらない。ガパオライスが猛烈に食べたいわ」

 わたしは正直に白状して笑った。

「ご注文ありがとう」

 ぱさらんも例の「クスっ」という笑みを返してくれた。

「あと、食後の飲み物にミントジュレップがお勧めなんですよ」

「ミントジュレップ? カクテル?」

「そう。ノンアルコールだけどね」

「えっと、まずはガパオライスをいただいてから考えます」

「かしこまりました。でもミントジュレップも自慢じゃないけど本当に美味しいのよ」

 ぱさらんはそう言ってウィンクした。あははっ、こういうウィンクができる人なんだ、ぱさらんって。チャーミングで違和感のないウィンク。わたしは半ば感心しながら照れ笑いしていた。

 短い会話だったけど、以前より親密さが増していると感じていた。来店二回目にして、なんだか古くからの常連客になったような気分だった。夢物語を話すのはもっと親しくなってからと思っていたけれど、これなら今日でも話せそうな気がした。

 だけどこの賑やかな店内で夢物語を話すなんてことができるだろうか……わたしは少し不安になった。一応ランチタイムの中心は避けたつもりだったけど、この展開は予想外だった。

──そうね、あんまりお店が賑やかになりすぎると白粉を食べられなくなるし──

 あの時のぱさらんの言葉は嘘だったのかしら? などと疑念すら抱いていた。


「お待たせ。とびっきりのガパオライスを召し上がれ」

 わたしのそんな不安を知る由もないぱさらんがガパオライスを運んできた。それは白いプレートの上で彩り美しく盛り付けられていた。サラダのサニーレタスとフルーツトマトのビビッドなグリーンとレッドの対比、そしてトッピングの目玉焼きの白と黄色のコントラストが目に鮮やかだった。加えてバジルとガーリック、ナンプラーの匂いが嗅覚をくすぐった。

 わたしはまずサラダのサニーレタスを口にした。新鮮で歯ごたえのある食感。そして自然な甘みを蓄えた瑞々しい水分がたっぷりと含まれていた。フルーツトマトは口の中で、その酸味と甘みを思う存分にはじけさせた。

 本当においしい野菜は人を幸せにしてくれる。そんな野菜たちと久しぶりに出会えた気がした。サラダにすっかり満足したわたしは、いよいよガパオライスに手を付けた。まだ熱々の湯気が立っている鶏肉とご飯をスプーンで少しだけ混ぜて、口へ運んだ。

「旨っ!」

 わたしは思わずつぶやいた。今まで食べたあらゆるガパオライスよりも美味しかったのだ。ほどよい辛味とスパイシーな香りが、昨夜の夢の情報量に少々疲れを感じていた頭脳と心に、適度な刺激と滋養を与えてくれた。ひとくちひとくち味わいながら咀嚼していくたび、わたしの中が満たされていった。

 食べ終わる頃には額にうっすらと汗が浮かんでいた。お冷を飲み干し、何かさっぱりとした飲み物がほしくなる。わたしは飲み物メニューを手に取って眺めた。

 ──そうね、ここはやっぱりミントジュレップかな──

 どうやらぱさらんが勧めるものに間違いはなさそうだった。わたしは素直にミントジュレップを頼もうと思い、ぱさらんを呼ぼうとメニューから目線を上げた。

「食後の飲み物は決まった?」

 そこにはニッコリ微笑むぱさらんの顔が至近距離でわたしの正面に待ち受けていた。わたしはすっかり不意を突かれて息を飲んだ。そんなわたしの様子を見てぱさらんは満足げに目を細めて頬を緩ませた。予想にしなかったぱさらんのおちゃめな行動といたずらな表情に、わたしは思わず吹き出してしまう。

「あはっ! もう! 口の中に食べ物が残っていたらどうするんですかー!?」

「大丈夫、そのときはエミさんがうつむくから」

 ぱさらんは真顔でそう言ってのけた。だけど目が笑っていた。

「思いっきり顔面に向けて吹き出したかもよ? 今頃顔中ご飯粒だらけなんだから」

「そうね、そうなったらそうなったで、もっと可笑しくって大笑いできたかも?」

 わたしは言った手前、ぱさらんの顔がご飯粒だらけになった様子を想像しようとしたけど、どうしても思い浮かべることができなかった。

「残念、大笑いし損ねちゃいましたね。仕掛けるのがちょっと遅かったんですよ」

「そうね、飲み物のオーダーを聞こうっていうタイミングだったから、ちょっと出遅れたわ」

 飲み物のオーダー……ようやく本題をわたしは思い出した。

「それ! 飲み物! すっかり忘れてしまうところだったわ。ええっと、結局ミントジュレップを頼もうと思っていたんです」

「ふふっ、お勧めを採用してくれてありがとう。今日のエミさんにはガパオライスとミントジュレップが最高のパートナーなの。きっとお話を始める手助けになると思うわ」

 そして彼女は「少々お待ちを」と言い残すと、わたしから少し離れたカウンター内の片隅で飲み物を作り出した。そこは棚の向こう側でぱさらんの様子はよく見えなかった。わたしはぱさらんの観察を諦め、少し手持ち無沙汰に店内を見渡してみた。

 いつの間にか客はカップル一組だけに減っていた。BGMも静かなピアノ曲に変わっていた。さっきまでの賑やかすぎて、夢物語を話すにはつらいと感じた状況から雰囲気が一変していた。

 ──お話を始める手助けになると思うわ── 確かにぱさらんはそう言った。彼女はわたしが何をしに来たか理解している。いや、むしろ待っていたかのようだった。そう、彼女はわたしの話を聞きたいのだ。彼女自身が以前話していたとおり、ケサランパサランが白粉を食べるように、わたしが話そうとしている夢物語を食べようと舌なめずりして待っていたのだ。

 わたしはにわかに緊張を覚えた。確かに夢のディテールはしっかり記憶していた。でもそれと話すことは別だ。たまたま良い食材を手に入れただけで、たいした腕もないのに調子に乗って料理を振る舞おうとしているようなものだった。

 美味しくない、つまらないって言われたらどうしよう──勢いでここまで来たわたしは、急に怖じ気づいてしまった。

「お待たせしました」

 ぱさらんが戻ってきた。わたしの前にコースターを敷き、その上にミントジュレップのグラスをそっと置く。脇にはストローが添えられた。またもやそれらの配置は、黄金比に沿って決められたかのように美しかった。

 そしてぱさらんはカウンターの中に戻り、わたしの向かい側に別の飲み物を置いた。黄色みを帯びたクリームのような濃厚さを感じる飲み物……ミルクセーキのようだった。それから彼女はどこからか折り畳みの椅子を持ち出してきて、わたしの正面を外してやや右側に腰を下ろした。わたしの正面には、厨房の窓の向こうに枇杷の木があった。その光景は祭壇と祭司を彷彿させた。

「さあ、ゆっくりお話をしましょう、エミさん」

「お話って……あの、そう、聞いてほしい話があるのは確かです。でも……」

「いいのよ、遠慮しなくて。あたしはエミさんのお話が聞きたいの」

 ぱさらんは優しい微笑みを浮かべ、わたしの目をまっすぐに見つめて言った。そして後ろの枇杷の木を振り返ってつぶやいた。

「けさらんぱさらんはお話が大好物」

「……」

 しばしの沈黙があった。わたしは焦った──話さなきゃ。ぱさらんはわかってくれているし、わたしは今日そのためにここへ来たんだから──焦るほど開口一番何を話せばいいのかわからなくなっていた。

 わたしはさんざん迷った挙げ句、なんとか言葉を発した。それは話の切り出し方としては最悪のものだった。

「最初に断っておきますが、この話はわたしが見た夢にすぎません。ないとは思いますが、夢オチかよ、とか言わないでくださいよね? ……ほんと荒唐無稽で支離滅裂な妄想話なんですから。でもちゃんと夢に見たままを話すつもり……です」 

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