氷雨の道草

 午後四時を回った頃から辺りは急に暗くなり、やがて雨が降りだした。ここへ着いたときに感じた雨の予感は的中してしまった。

 すでにお姑さんはゲートの向こうに戻っていた。ミサキちゃんは一度おっぱいを飲み、おむつも替えて、カナの側に置かれたベビーベッドの中で静かに眠っていた。

「エミの言ったとおり、洗濯物を先に取り込んでおいて正解だったよ」

「予感が当たっちゃったねぇ。外れたほうが良かったんだけど……」

 わたしは雨が早く止まないかと願いながら、外の様子を眺めた。春分を過ぎたとはいえ雨の日は暗くなるのが早い。時計が一気に一時間ぐらい進んだような気がした。そこへカナが身を乗り出しながら、ちょっと小声で話しかけてきた。

「ねえエミ、帰りにはちょっと早いけど、そろそろ出ない?」

「あ、そうだね。夕飯の支度や、ミサキちゃんをお風呂に入れたりしなきゃいけないもんね?」

「違う違う! そんなんじゃなくてさ、駅まで送る途中でちょっと道草しようと思って」

 そう言ってカナはいたずらっぽく笑った。

「え、なに? 道草って──」

「素敵なお店を最近見つけてさあ、エミも絶対気に入ると思うよ」

 カナが目を輝かせた。わたしはようやく彼女の意図を理解した。

「いいけど、ミサキちゃんや夕飯の支度はいいの?」

「大丈夫、何のための二世帯住宅だと思っているの? それにあと二時間は起きないから」

 カナはそう言うとベビーベッドの中を覗き込んだ。ところが「あれ? もう起きてる」とつぶやいたかと思うと、今度はミサキちゃんを抱いて立ち上がり「作戦変更!」と言って「ゲート」に向かった。そしてドアを開けるやいなや「お義母さん、ミサキをちょっと預かってもらえますぅ?」と大声で呼びかけながらズカズカと廊下を進んで行った。

 ほどなくして「ゲート」にカナとお姑さんが戻ってきた。今度はお姑さんがミサキちゃんを抱っこし、カナがなにやら紙袋を手にしていた。

「お茶が気に入ってもらえたみたいだから、揚最中のお礼にと思って」

 お姑さんがミサキちゃんをあやしながら、にこやかにそう言った。わたしは恐縮して一応遠慮の言葉を返した。

「いえ、そんな風にお気遣いいただいては……どうかお構い無く」

 そこにカナが割って入る。

「いいのよ、加賀棒茶のファンが増えてくれるなら、なによりなんだから。ねえ、お義母さん?」

 そこへお姑さんが続く。

「そうそう、今は加賀棒茶の布教活動に余念がないのよ」

 そんな茶目っ気のあるお姑さんの言葉に、わたしは笑顔で受け取るしかなかった。

「わかりました。これからは加賀棒茶を愛飲させていただきます」

 加賀棒茶のお土産は正直に嬉しかったし、それにお姑さんと茶飲み友だちになりたいと望んでいるわたしもいた。

「強引な布教でごめんなさい。これに懲りずまた遊びに来てやってくださいね、エミさん」

「はい、お言葉に甘えてまたお邪魔します。お義母さまとミサキちゃん、会いたい人が増えましたから」

 玄関を出ると辺りはすでに薄暗く、吐く息が白くなるほど冷え込んでいた。氷雨と呼びたくなるような冷たい雨が降りしきり、季節は完全に逆行していた。

 玄関から車までをカナと駆け抜ける。降りかかる雨は氷のような冷たさに感じられた。わたしは薄手のコートしか羽織ってこなかったことを後悔した。

 なんとか車に乗り込んだものの、車の中も冷えきっていた。雨粒がバラバラと痛そうな音を立てて車の屋根を叩く。カーオーディオの音楽がかき消されて、聞き取れなくなるほどの激しさだった。

「うわー、すごい天気になっちゃった」

 カナがワイパーを一番早く動くようにしつつボヤいた。全く同感だった。とてもじゃないけど「素敵なお店で道草」なんて呑気な雰囲気ではなかった。

 家の方に目をやると、ミサキちゃんを抱えたお姑さんとおぼしき人影が窓に映っていたが、車窓の雨滴に歪んでよく判らなかった。一応手を振ってみたものの、果たして向こうから見えたか怪しかった。

 カナは車を慎重に走り出させた。空には薄明かりが残っていたけれど、周囲の風景はまったくわからなかった。ただ曲がりくねった道とトンネルをいくつか抜けたのは、来たときと一緒だった。

 ワイパーは忙しくフロントウィンドウを行き来し、雨に光る路面はラインが見えにくく、時折すれ違う対向車のヘッドライトが眩しく反射して視界を奪った。

「雨の夜って運転苦手~」

 カナが再びボヤく。うん、わたしも苦手だ。そもそもペーパードライバーだったので、まともに運転できるか怪しかった。

「ごめんね、こんな天気の中を運転して送ってもらって」

「ううん、気にしないでよ。こんな日だって買い物とか普通に行くし、苦手だけどいつものことよ」

 地方の車社会に生きる者は、苦手だろうが、天気が悪かろうが、車を運転しなければ生活できない。カナにとっては当たり前の日常に過ぎないのだ。

 道はカーブの少ない緩やかな下り坂が続くようになり、短いトンネルと住宅街が繰り返すところにさしかかった。ここまで来ればわたしにもわかる。たぶんこのまま道なりに行けば駅の方へ出るはずだ。

 ところが駅よりずいぶん手前の交差点で、カナは左のウィンカーを上げた。

「さあて、ここからが道草よ。こんな日こそ南プロバンスなカフェで暖まらなきゃ」

 カナの固い決意とともに車は脇道に入り、民家の立ち並ぶ細い通りを進んでいった。道は微妙にカーブが折り重なっていて、わたしはすぐに方向感覚を失った。ここで突然車から降ろされて駅へ行けと言われても、絶対に無理だと思った。そこへ突然カナが素っ頓狂な声を上げた。

「あーっ! さっきの角、右折するんだった!!」

 さっきの角がどの角なのかわからなかったけど、そう言っている間も車はどんどん進んでいった。カーナビの地図は縮尺が小さすぎて役に立たなかった。わたしがナビの画面を覗き込んだ様子を見て彼女は笑った。

「地元走るのにナビなんか見ないわよ」

「そりゃそうだろうけど、通り過ぎちゃった角まで戻らないの?」

「そうね、ちょっとUターンしやすそうなところを探していたんだけど無いのよねぇ。適当にその辺で切り返そうかな」

 そう言ってカナは車を路肩に寄せて停めると、バックで駐車場のような所に車を入れた。いや、そこは駐車場だった。雨で見えにくかったけど「Cafe けさらん お客様駐車場」と立て札があった。カナの家のカーポートと同じぐらいの広さで、車三台を並べて停められるだけのスペースがあった。

 そして駐車場の隣は一段高くなっていて、その上に古民家を改装したとおぼしきカフェがあった。窓には明かりが灯り、小さな目立たない看板にも電気が点いていて、まだ営業中のようだった。

 窓明かりの向こうに女の人の影が見えた。その人影が窓に近づいてくる。

「あ、目が合っちゃった!」

 わたしは思わず声を上げてしまった。カナがハンドルを切り返しながら聞き返した。

「え? なあに? 誰と目が合ったの?」

「ここ、カフェの駐車場だよ。今、お店の人と目が合っちゃった」

 冷静に考えれば逆光で影しか見えていなかったのに、目が合ったとか、それがお店の人だとか分かるはずはなかったが、何故かその時わたしは女の人が「いらっしゃいませ」と微笑んだような気がしたのだ。

 わたしはここで車を発進させてはなんだか申し訳ない気がしてしまった。それにも増して、あの人影の正体を無性に確かめてみたくなっていた。

「ねえカナ、このお店に入ってみない?」

「ええ~っ? 別に目が合ったからって、そんな義理を感じなくてもいいでしょ?」

「わたしこういうお店に入ってみたかったのよ。古民家カフェって素敵じゃん」

 わたしはやや強引な理由を並べ立てていた。別に古民家カフェにそれほど思い入れがあるわけでもなかった。しかしなぜか、何が何でもこのお店に入りたいという衝動に駆られていた。

「エミってそういう趣味だったっけ? どっちかいうと、わたしが行こうと思ったお店の方がエミの好みだと思ったけどなぁ」

 カナは何気に痛いところを突いてきた。彼女がわたしの趣味を知っているのは当然といえば当然で、実際わたしは南欧の田舎風みたいな雰囲気のところが好きだった。だからカナが行こうとしていた「南プロバンスなカフェ」がまさしくそうだった。そしてこんな和風な古民家を改装したカフェに、さほど興味が無かったことも図星だった。

「ゴメン! カナ。わたしトイレが無性に恋しいの。もう我慢できない!」

 わたしはなりふり構わず、カナが絶対に断れない荒技を使った。

「加賀棒茶の飲みすぎよ」

 当然ながらカナは呆れて小さくため息をついた。

「ま、こんなところに古民家カフェがあるなんて知らなかったし、予定を変更して新規開拓と参りますか」

 そう言って気をとりなおすようにハンドルを握りなおし、駐車場にお行儀悪く斜めに入った車を一度だけ切り替えして、まっすぐに入れなおした。

 雨はいつの間にか小雨になっていた。車を降りると吐く息が微かに白くなる。冷たく湿った風が、薄着のわたしから急激に体温を奪い去っていった。

「うひゃー」

 小さく悲鳴を上げつつ、わたしはカフェ入り口の軒下へ駆け込んだ。やや遅れてカナも「冷た~」と言いながら駆けこんできた。

 目の前には昔懐かしいカタチの引き戸が『ようこそ』と語るように、そこにあった。古びた色をした木の縦格子、その間に細長いすりガラス。引き戸の脇には自然木から切り出した小さな板に「Cafe けさらん」と焼き印風に書かれた看板が掲げられていた。カナが声に出して読んだ。

「かふぇ、けさらん?」

「けさらん……ケサランパサランのケサランかな?」

 わたしも思ったままを口にした。

「白くてフワフワした毛玉みたいなヤツ? 白粉おしろい食べて生きているとかいう?」

 カナは耳慣れない言葉の意味を確かめるように訊いた。

「うん、他に〝けさらん〟につながる言葉が思いつかないもん」

「ケサランパサラン……ねえ……」

 二人は顔を見合わせた。看板以外には「本日のおすすめ」やメニューみたいなものは掲げられていないし、どんなお店か全く見当がつかなかった。

「ハズレだったらエミのおごりだからね」

 カナがわざとらしい含み笑いを浮かべた。わたしのわがままで急遽入ることにしたお店なんだから、カナが行こうとしていた「ステキなカフェ」に劣るようなら申し訳ないし、その時はわたしの奢りでも全然構わないと思った。だけど不思議と根拠の無い自信ならあった。

「いいわよ、絶対ハズレなんかじゃないから」

 控え目の啖呵を切って、わたしは引き戸に手をかけた。偶然たどり着き、初めて入るお店。しかも冷静に考えればよくわからない理由で決めた行動。店の中にはさっき窓に見た女の人がいるはずだった。

 わたしは何かを予感しながら──いや、何かを期待していた──少しだけ緊張と胸の高まりを感じつつ引き戸を開けた。

「カラカラカラ……」

 引き戸の車輪と金属のレールは、手入れが行き届いた軽快な音を立てた。懐かしい響きと手応え──小学生の頃、友達のおじいちゃん家へ遊びに行ったときに聞いた音と同じだった。それは初夏の頃だったと思う。五月晴れの眩しい陽光と深い陰影、開いた引き戸の向こうは暗闇のように見えた。今は逆に、雨の降る暗闇の側から暖かな灯りを見ていた。

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