第24話

 私にとって夢というのは、もう一つの現実のようなものだ。彼女に精気を分け与える時はいつも鮮明な夢を見る。現実と遜色ないくらいに。だから時々、どっちが現実でどっちが夢なのかわからなくなる時があるのだ。夢で頬をつねっても、痛いって感じるし。


 私は目を開けた。

 教室だ。高校の教室だってことはわかる。でも、いつもと何かが違う気がした。


「そして、この文法が最も重要で……」


 先生が黒板に英文を書いている。どうやら、英語の授業中らしい。


 私は窓の外を眺めた。見える景色は、やっぱりいつもと違う。劇的な変化があるわけじゃないのに、違和感がある。これは多分、角度が違うのだ。


 そこで初めて、ここが私の教室でないことに気づく。

 近くの席に、惠利沙が座っていた。退屈そうにノートを取るその姿は、去年と全然変わらない。でも、顔立ちがちょっと大人びたような気がしないでもない。それは彼女を見る私の目が変わったせいかもだけど。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、先生が教室からいなくなる。

 どうやら、昼休みらしい。


「水葉ちゃん。ごはん食べよ」

「うん」


 惠利沙が声をかけてくる。

 私はいつものようにコンビニで買ったおにぎりを食べながら、教室を見回した。知らない子ばかりだ。琴春の姿も、他の友達の姿もない。


 教室のざわめきが、どこか遠く聞こえる。

 昨日見た動画の話とか、恋バナとか、噂話とか。実体のない影のような会話が、耳に入ってくる。


「水葉ちゃんはさ。もう進路とか決めてる?」


 惠利沙が言う。


「進路かぁ。子供と関わる仕事に就きたいなって思ってるけど。どの大学に入るかは、まだぼんやりって感じ。惠利沙は?」

「私は……何も」


 惠利沙は小さな口でお弁当を食べている。あんな感じだけど、クロエさんは料理好きだったりする。多忙でも、料理だけはクロエさんが毎日作るらしいのだ。曰く私の料理で皆を跪かせたい、とのことで。


 なんというかあの人は、サキュバスってより女王って感じだ。貴守さんも尻に敷かれている感じだし。


 料理はさせてもらえないけど、その分他の家事を頑張ってるよ! とは貴守さんの言である。クロエさんの服、洗うの大変そうだもんなぁ。汚れを一切残さないのが専業主夫としての矜持、なんてことを前に言っていた気がする。


「高校も、水葉ちゃんと一緒のところならどこでもよかったし。大学も、水葉ちゃんと同じにしたい」

「それは嬉しいけど……ほんとにいいの? 惠利沙の人生なのに」

「私の人生は……水葉ちゃんとずっと一緒がいい」


 彼女の言葉に、目を細める。

 何か大事なことを忘れている気がするけれど、その気持ちは純粋に嬉しかった。

 ……でも。


「それは嬉しいけど……私がいなくても、一人で生きていける道を選んでくれた方が、もっと嬉しいかな」

「……どうして?」

「一人でも楽しく生きられる人同士の方が、二人で生きた時にもっと楽しくなるって思うから」


 お父さんとお母さんもそうだし、クロエさんと貴守さんもそうだ。


 互いがいないと生きていけない関係というのも、それはそれでいいかもだけど。やっぱり、一人生きていけるとしても、それでも互いの存在を求めているっていう方が素敵な気がする。


 まだ私には、恋のことも愛のこともわからないけれど。

 私がいないところでも好きに生きて、その上で私を求めてくれたなら……それが一番、嬉しいって思う。


「そういうの、よくわからないよ。私は水葉ちゃんがいないと生きていけない。水葉ちゃんにも、私がいないと生きていけなくなってほしい。それじゃダメなの?」

「ダメ、とは言わないけどね。私は、惠利沙のことが好きだから。好きな人には、もっと自由に生きてほしいんだ」

「え、ぁ。……私も水葉ちゃんのこと、すきだよ」


 私はくすりと笑った。

 その好きは、私の好きとはきっと違う。それが少し寂しくて、切ない。


 いつか私の好きと彼女の好きを一致させたいなって思う。そのためのアプローチ方法が、全然思い浮かばないんだけど。


 まだまだだなぁ、私。

 でもそんな自分のことが、好きだったりもする。未熟で、まだまだで、できないことも多いけど。今の私は、今だけのものだ。だからどんな私も、愛おしく思える。昨日とも明日とも違う、今の私が。


「幼稚園の頃から、ずっと。水葉ちゃんのことが好きで、ずーっと追いかけてきた」

「そっか」

「水葉ちゃんは私のこと、いつから好きなの?」

「んー……いつからだろ。生まれる前から?」


 わかんないけど。

 私の言葉に、惠利沙はふわりと笑った。


「嬉しい」


 笑顔を見ると、幸せになるのはどうしてだろう。

 私はそっと、彼女の頬に手を伸ばした。相変わらず、その頬は柔らかくて温かい。一体どんなスキンケアをしているんだろうって、感心してしまう。


「ずーっとこのままでいられたらいいのになぁ。水葉ちゃんと二人で、ずっと仲良く……」

「……そうだねぇ」


 ぼんやりと、窓の外を眺める。

 ずっと、かぁ。


 このままでいたいって気持ちもあるけれど、このままじゃ嫌だって気持ちもある。一歩踏み出したらもう元の場所には戻れなくなって、今の関係を失ってしまうかもしれない。それは怖いことだ。

 怖いこと、だけど。


「でも私は、もうちょっと……前に進みたいかなって思うよ」

「私とずっと友達でいるの、嫌なの?」

「うん、やだ」


 私はにこりと笑って、立ち上がった。

 彼女は目を見開いて、私を見ている。その瞳はひどく揺れていた。


 自分の胸に手を当ててみると、やっぱり鼓動が速かった。

 惠利沙とずっと友達のままでいたい。そうすれば、傷つくことも怖いこともないから。


 でも、私は惠利沙ともっと先に進みたい。友達のままじゃなくて、お互いに心から好きって言い合えるような、そんな関係になりたいのだ。たとえそれが叶わずに、関係を失うことになったとしても。


 ……そうだ。

 私は、惠利沙と恋人同士になりたいのだ。互いの胸のときめきだとか、幸せだとか、時には悲しいことだとか。そういうものを全部、惠利沙と二人で分かち合いたいって思う。だから、もう今のままではいられない。


 惠利沙が今私のことをどう思っていたって、関係ないのだ。

 大事なのはこれからである。

 私は窓に向かって、一歩足を踏み出した。


「だから、惠利沙。追いかけてみてよ」

「え? ……水葉ちゃん!?」


 前に彼女がそうしたように、私も窓に向かって走り出す。

 がしゃん、と音がして、昼の太陽の光が割れた窓ガラスに反射する。その輝きに、少し目が眩んだ。


 痛くは、ない。ただ浮遊感があって、数秒後には地面に叩きつけられているかもしれないって不安もあった。だけどそれでいい、と思う。普段と違うことをしてみないと、面白くない。

 だってここは——。


「心臓に悪いよ、水葉ちゃん」

「いいじゃん、夢なんだから」

「……気づいてたの?」

「今気づいた。夢でも楽しかったよ、惠利沙と同じクラスで授業受けられた」

「……うん」


 惠利沙の翼の音がする。予想通り、彼女は私を助けに来てくれたようだ。彼女はそのまま、私を持ち上げて屋上まで飛んでいく。こうして彼女と一緒に空を移動するのは初めてだけど、意外に楽しいものらしい。現実でやるのはちょっときついけど。

 私は屋上に降り立って、笑った。


「あー楽しかった! 夢っていいね、好き勝手できて」


 私が言うと、彼女は目を逸らす。

 ……私が覚えていない夢の中で、どれだけ好き勝手やってきたかが気になるなぁ。


 いや、詰問したりはしないけども。

 変なこととかしてないよね? さすがの惠利沙もそんなことはしない……はず。


「あれ。でも、なんで夢見てるんだっけ。学校行く途中じゃなかった?」

「私に精気を分けすぎて、倒れちゃったんだよ」

「そういえばそっか。いつもはそんなことにならないのに、なんでだろ」

「イメージが強すぎたんだよ。水葉ちゃん、自分の全部を私にあげようって思ったでしょ」

「え、えーっと」

「ちゃんと言わなかった私も悪いけど。……ダメだよ、そういうの」

「ごめん……」


 これも恋心の暴走ってやつなのかもしれない。好きな人には自分の全部をあげてもいいかなーとか思ったりしたりしなかったり。

 ……いや、私なんかすごい恥ずかしくない?

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