寝不足のまま、お見合いに行きました3



「『もしや、お前は』で結婚相手だとは思わないだろ? 普通」


 そんなことを言う侑矢と綾都は廊下を歩いていた。

 営業に持っていくものがあったからだ。


 侑矢は何処に用事があるのか知らないが。


 そういえば、別になんの用もなかったみたいなのに、何故、うちの部署に来ていたのかも知らないな、と綾都は思う。


「なにか深い事情でもあるんじゃないのか?」


 らしくもなく、やさしく侑矢は訊いてきた。


「だって、突然、結婚とかおかしいだろ」


 ……深い事情、ないな。


 確かに異常な事態だが、なにか複雑な背景があってこうなっているわけではない。


 あえて、原因を追求するなら。


「うち、この間、原田さんが急に仕事辞めたじゃない。

 ご実家のご都合で」


「ああ」


 侑矢は、原田さんの退職がこの結婚に関係あるのか、という感じの神妙な顔をする。


「そこに、派遣の福井さんが姪っ子ちゃんに移されたおたふくになって。

 あれ、大人になってやると大変だよね。


 それでずっと休んでて。

 うちの部署、急に二人もいなくなって、てんてこまいになってたじゃん。

 それで」


 侑矢はまだ続きの言葉があると思っていたらしい。


 ちょっと黙ってこちらを見ていたが、やがて、

「なんで!?」

と訊き返してくる。


「ああ、ごめん。

 説明が足りなかったか」


「一個も足りてないけどっ!?」


「いや、それで睡眠不足で判断能力が欠如していたというか」


 すべてがぼんやりとただ面倒臭く、眠くて。

 今でもよく思い出せない。


 実は、あの太鼓橋ごと、なにもかもが夢の出来事だったのでは……?


 綾都は現実逃避しようとした。


 だが、向こうから、慶紀がやってくる。


 ……夢の出来事のはずなのに。


 そのままヤンキー同士の接触のように肩がぶつかった。


「何故、避けない?」

と慶紀が訊いてきた。


「いや、幻かと――」


 幻と思いたかったので避けなかったのだ。


 慶紀はおのれの肩を見下ろし、

「口紅がついただろ」

と言う。


「あっ、すみませんっ」


「いや、目立たない色だからいいが」

と慶紀は、そっとハンカチでスーツの肩についた口紅のあとを押さえ、とろうとする。


「あっ、ハンカチ、汚れますよ。

 私のハンカチ……


 ハンカチ、持ってない」


 このスーツにはポケットがないので持っていなかった。


 後ろから侑矢が、

「俺、持ってますよ」

とハンカチを差し出す。


 ……侑矢に女子力で負けたっ、と衝撃を受ける綾都の前で、慶紀は値踏みするように侑矢を見、


「いや、結構だ。

 ありがとう」

と断る。


 そのとき、離れた場所から一部始終を見ていたらしい、総務の村上浜子むらかみ はまこという、小柄で丸顔の可愛らしい先輩が飛び出してきた。


「白神さんっ、大丈夫ですかっ?」

と綾都を突き飛ばす感じに浜子は、慶紀の正面のポジションを確保する。


 細い綾都は文字通り、吹き飛ばされ、よろけた。


 後ろから侑矢が支えてくれる。


「大変ですねっ。

 口紅のシミ、とれづらいからっ。


 業者に出した方がいいんじゃないですかっ?

 あっ、なんでしたら、私がとりましょうかっ?」


 ……村上さんって、クリーニング業者なのかな、と綾都は思う。


 今、業者に出さないととれない的なことを言っていたはずだが。


 慶紀は騒ぐ浜子ではなく、侑矢の方を見ていた。

 身長的に目線が同じだからかもしれないが。


 一方、浜子は侑矢の方をまったく見ない。


 村上さん、いつもなら侑矢といると、何処からともなくやってきて、私を無視して侑矢と話し出すのになあ、

と綾都が不思議に思いながら、見ていると、浜子はいきなり、綾都を振り向き言った。


「もうっ。

 藤宮さん、ダメじゃないの、お客様に。


 ほんとうに注意散漫なんだからっ」


 まあ、そこは今、否定できないな……。


 浜子は上目遣いに窺うように慶紀を見て、

「口紅のあととか、彼女さんが見たら、怒りますよね?」

と訊く。


「彼女……はいないな」

 そう慶紀が言うと、浜子は目を輝かせた。


「結婚相手ならいるが」


 えっ? と浜子が不思議な声を出す。


 親戚の家の裏の川で大量のカエルがうるさく。

 泊まると寝られないのだが。


 そのカエルが確か、こんな声を出していた。


 ヴェッみたいな。


 聴きようによっては芸術的な発声だ。


 村上さん、可愛らしい見た目に反してユニークだな、

と思っていると、慶紀がいきなり、綾都の手首をつかんできた。


 ボクシングで勝者を決めたときのように、綾都の手を掲げて言う。


「俺の結婚相手はこいつだ――」







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