第7話『対抗儀式の準備と失われる覚悟』

 神聖婚儀まで、あと二週間。

 私たちは王都へ向かう準備と並行して、対抗儀式の詳細な手順を解読していった。

 先祖の手記は一部が暗号化されていたり、故意に曖昧に書かれている部分が多く、解読は困難を極めた。


「どうやら、ただ三つの要素を揃えればいい、という単純な話ではないようです」


 ジュリアンは、書庫で見つけた別の古文書と手記を照らし合わせながら眉をひそめた。


「対抗儀式は、術者の命、あるいはそれ以上に大切なものを代償として求める、非常に危険な秘術です」


 彼の言葉に、私はごくりと唾をのんだ。

 儀式の内容はこうだ。

 まずジュリアンが清浄な魔力を使い、儀式場となる空間に魔法陣を描き、外部からの干渉を断つ結界を張る。

 次に私が魔法陣の中心に立ち、ヴァロワの血に宿る力を使って、「媒介物」であるペンダントと『囁きの花嫁』の繋がりを強制的に断ち切る。

 そして最後に、引き剥がした『囁きの花嫁』を完全に消滅させる。


 問題は、その最後の段階だった。


「『囁きの花嫁』は、この世界の法則に深く根差した存在。それを消し去るには、同じくこの世界の法則から外れた『異質な力』をぶつける必要がある、と書かれています」

「異質な力……?」

「ええ。手記によれば、過去にこの儀式を行った先祖は自身の『未来視の能力』を代償として捧げたそうです。それは、この世界の時間の流れから逸脱した、一種の異能だった」


 その瞬間、私は理解してしまった。

 私が捧げるべき「代償」が何であるかを。

 この世界の法則から外れた、私だけが持つ異質な力。

 それは、乙女ゲームの悪役令嬢エリアーナではない、日本の会社員だった「私」の記憶――すなわち、「前世の記憶」そのものだ。


 前世の記憶があるからこそ、私はこの世界を「ゲームの世界」だと俯瞰して見ることができた。

 セオドアやリリアの言動を客観的に判断できた。

 そして、世界の異常性にいち早く気づき、リリアの呪いに対する強い精神的な耐性を得ることができた。

 私の最大の武器であり、アイデンティティそのものである、転生者としての記憶。

 それを全て捧げなければならないのだ。


「……記憶が、なくなるの?」

「おそらくは。前世の、そしてこの世界がゲームであるという認識、全てです。儀式が終われば、あなたはただのエリアーナ・ヴァロワになる。自分がなぜこんな戦いをしているのか、その理由さえも忘れてしまうでしょう」


 ジュリアンの声は、痛みを堪えるように静かだった。

 日本の記憶。

 平凡だったけれど、温かい家族がいた。気の合う友人がいた。

 大好きだった漫画やアニメ、美味しかったコンビニのスイーツ。

 雨の日の匂い、夏の夕暮れの空の色。

 それら全てが、私という人間を形作ってきた、愛おしい思い出。

 それを、手放す。

 それは、自分の一部が死ぬことと同義だった。

 恐怖と悲しみで体が震える。しかし、私は顔を上げた。


「やるわ」


 迷いはなかった。


「私がそれを失うことで、この世界が救われるのなら。……それに、もしかしたら、それこそが私がこの世界に生まれてきた意味なのかもしれない」


 ゲームの筋書きから解放され、本当の自由を手に入れる。そう願っていたはずだ。

 皮肉にも、本当の意味で自由になるためには、私をこの世界の「異物」たらしめている最後の枷を自ら外す必要があった。


「決意は、固まったようですね」


 ジュリアンは私の目をまっすぐに見つめた。


「エリアーナ様。必ず、あなたを守ります。そして、共に生きて帰りましょう」


 彼の言葉が、冷え切った私の心に温かい勇気を注いでくれた。

 私たちは決死の覚悟を胸に、狂気の王都へ向かう準備を終えた。

 夜が明ければ、出発だ。

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