完璧な人間

瑠璃唐草

完璧な人間

「そこの人、後悔を売ってみませんか?」


 夜も更け、辺り一帯の人通りが無くなった時間。そんな時間に、気味の悪いフードを被った老人が、男に摩訶不思議な提案をしていた。


「後悔を売る?」

「そうです、あなたの顔には後悔が染み付いています。それを売れば、自然と幸福が手に入ります」

「幸福?」

「えぇ、そうです。後悔のない人間を想像してください。幸福に溢れていませんか?」


 老人のよく分からない妄言だと、男は無視しようとした。だが、この気持ちを、あの時の後悔を捨てれるのならと、売る決断をしてしまった。


「どうせそんなの無理だろうけど、売ってみるよ」

「そうかそうか、いい選択じゃ。これであなたは完璧な人間になれる」

「完璧?」

「そう、完璧。あなたの足枷である後悔はワシに売れば、次第にあなたの頭から消える。それをもってあなたは完璧になるんじゃ」


 最後まで気味の悪いことを言った老人は、男の前から消えた。そう、消えたのだ。まるで、そこには最初からいなかったかのように。

 

 男は目の前の現実に驚きつつも、どうせあの時の、日向ひなたを死なせてしまった後悔など消えないと思っていた。愚かにも、手を離してしまった自分を、目の前で轢かれる日向を眺める自分を、忘れることなどは無いと。しかし、忘れれるなら捨てたいとも思っていた。


 男は帰路の途中には、目の前で起こった不思議な現象も、後悔すらも、なぜか頭から抜け落ちていた。

 家に着く頃には、消えかけの蝋燭が消えるように、何も覚えてはいなかった。あの日に見た日向の最後の笑顔すらも。

 

 朝起きたら男は違和感を感じる。何かを忘れたような気がしていた。ただ、肝心な何を忘れたのかすらも分からない。そんな違和感を抱えながらも、男は不思議と開放感に満ち溢れていた。

 ︎︎だから何かを忘れたことなど、次第に気にならなくなっていく。会社に行く準備が終わった頃には、気分晴れやかな男。その気分のまま会社に向かった。


 会社では昨日までと見違えるほどに、テキパキ仕事をこなしていた。周りからも「明るくなった」だの「なんかありました?」だの驚かれていた。男はそれに対して何も無いというのだから、周りは驚く他ないだろう。

 

 それに男自身も不思議だった。以前までは、仕事のできない後輩の世話に疲れ果てて、上司の無茶ぶりには呆れて、イラついてばっかりだったからだ。世界にすらそのイラつきを向けるほどに。なのに、今は心の余裕が出来たかのように、凪の心で対応できていた。


 男は昨日より早く仕事を終わらせ、家に向かっていた。その道中、男は気味の悪い老人に声をかけられた。


「あなたは日向という人物を知っておりますか?」

「誰のことでしょう?」


 男は知らない人物から、知らない人物の事を聞かれたのだから、不思議でしょうがなかった。


「いえいえ、知らぬのならそれでいいんじゃ。わしの術がしっかりとかかっている、そういうことなのですから」


 男は気味の悪い老人を、関わってはいけない人物だと断定し、その場から離れようとした。だが、思い出してしまった。昨日のことを、何か後悔を売ったということを。

 思い出すのが遅かったようで、男が振り返った時、老人はもう居なかった。


 男は悶々とした感情を抱きながら家に帰ってきた。そこで、こんな時は音楽を聞こうと思い至る。そこでお気に入りの再生リストを再生した。

【貴方を求めてオオデマリの元へ。でも、貴方の所には届かない。だから今は笑う】

 音楽が流れ始めて、男は強烈な違和感を感じた。なぜなら冒頭の歌詞に、音楽に、なんの感情も抱かないからだ。前まで反射的に涙を流していた記憶がある程の曲。そんな思い入れがあるのに、男は何も感じない。男はさらに悶々とした感情が深くなっていった。

 

 そんな中、男の視界の片隅に、とある写真が写った。それは男と1人の女の写真。男は自分の写真なのにそこに写る女が誰なのか分からない。

 ︎︎忘れただけ? ︎︎いや違う、ならなんでこんなところに飾っているんだ、と自問する。男は自分が分からないでいた。大事なことを思い出すんだと、記憶を辿っても、売ってしまったそれは見つからない。

 

 何もかも分からなくなった男は、音楽をブツ切りし、全身鏡を眺めた。

 そこに居たのはいつもの自分。だが、男には見つめれば見つめるほどに、自分では無いように見えていた。

 男はこれを自分だとは認めたくなかった。でも、認めるしかないのだ。だって、鏡に映っているのだから、どんな自分であれ、それは自分。前から欲していた、後悔をなくしてスッキリしたはずの自分。

 でも何故か、なにかが壊れているように見える。


「あぁ、売らなければよかった」


 後悔を売って手に入れたのは幸福?……いや、この感情は後悔というらしい。

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完璧な人間 瑠璃唐草 @rurikarakusa310

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