物語1 一人の金持ちに送る


 あるところにそれはそれは裕福な男がいました。

 キラキラの宝石が輝く服を着て、首にはライオンのタテガミようなファー。靴だってオーダーメイドの革靴です。


 男は毎日各国の豪華な食べ物を食べて、羽毛のベッドで寝て、金で出来たお風呂に入っていました。

 しかし、男は不幸でした。


 何をしても心が動かないのです。


 最高の物を全て味わった男は、40を越えた辺りで人生の楽しみを失っていました。


「何か私を感動させてくれるものはないだろうか」


 頭を悩ませながら屋敷の庭を歩いていた男は、ふと、どこからか音楽が聞こえてくるのを耳にします。


 ♪~~~~……。


 それは男が聞いたことのない音楽でした。


「なんだこれは、素晴らしい! さては有名な作曲家がどこかで新しい曲を作ったに違いない!」


 男は飛んで喜び、音のする方へ急ぎます。

 そうして男が見つけたのは、ボロボロの一軒家でした。その中で一人の女が、平凡なピアノでその音を奏でていたのです。


 どう見ても有名な作曲家ではありません。


「しかし素晴らしい才能だ! 彼女をお抱えの音楽家にしてしまおう!」


 男は勇んで家に訪れ、女の演奏に感動したこと、どうか屋敷で毎日弾いて欲しい事、お金を幾らでも出すということを話しました。

 しかし女は困った顔で、こんなことを言うのです。


「これは勝手に音を弾くピアノなのです。鍵盤に手を触れると、勝手に音を弾いてくれるのです」


「なに? このピアノはこんなに素晴らしい曲を勝手に弾いてくれるというのか!?」


 男は目を丸くして、その平凡なピアノをまじまじと見つめます。


「ならばこのピアノを譲ってくれ! お金は幾らでも出す!」


 女はそれならばと、かなりの大金と引き換えに、そのピアノを男に譲りました。

 男はウキウキとしながらピアノを召し使いに運ばせて、早速屋敷の広間で鍵盤に触れてみました。


 すると聞いたこともない素晴らしい音楽が、そこから流れてきたのです。

 曲が一つ終わっても、また鍵盤に触れれば何度も何度も、新しい音楽が流れてきます。


「素晴らしい! 音楽とはこんなに美しい物だったのか!」


 その日、男はしばらくピアノの音を楽しんでから眠りに付きました。

 そうして次の日、ご機嫌な男は友人との昼食に出掛けます。


 友人はご機嫌な男を見て言いました。


「どうにも今日はご機嫌だね。いつもしかめっ面をしていた君とは大違いだ」


 男は答えました。


「素晴らしい音楽と出会ったのだ! この先、何があろうと私は二度としかめっ面にはならないだろう!」


 友人は少し驚いてから言いました。


「君がそんなに音楽が好きだったとは知らなかった。明日有名な作曲家の音楽が新しく発表されるんだ。チケットがあるから一緒にどうだい?」


 男は喜んでチケットを受け取りました。


 ピアノから流れる音楽でここまで心が踊るなら、きっとその演奏も自分を楽しませてくれると考えたのです。


 そうして迎えたコンサートの日、男はまたご機嫌な様子で席に着きましたが、始まった演奏に眉を潜めます。


「なんてことだ……。私はこの曲を聞いた事がある!」


 それはピアノから流れてきた音の一つでした。

 その後に続く幾つかの曲も、男は既に知っていました。どれもこれも、ピアノから流れてきたものと同じだったのです。


 男は気付きました。あのピアノは、男が聞く筈だった未来の音を流していたのです。

 あのピアノは、男から未来の楽しみを奪っていたのです。


 男は二度とピアノの鍵盤に触れることはなくなり、またしかめっ面に戻りました。


 何年もしてから、ようやく友人が尋ねました。


「あれから何度も素晴らしい音楽を聞きに行っているというのに、何故君はそんなにしかめっ面をしているんだ」


 男は答えました。


「君には私の気持ちが分かるまい! 1888年の今日に至るまで聞き続けた全ての素晴らしい音楽は、あの日私がピアノで既に聞いた物だったんだ! あれから私はちっとも楽しくない! 怖くてピアノを弾く気もしないんだ!」


 友人は困ったように言いました。


「せめて何か食べなければ。君はもう痩せ干そって、今にも死んでしまいそうじゃないか」


「今の私が、死んでないとでも言うのかね!」


 バン!と立ち上がった男の指が、うっかりあのピアノの鍵盤に触れてしまい、そうして流れてきた曲は……


 ♪~~~~……。


 ふと、それを聞いていた通行人が呟きます。


「おや、フォーレの『レクイエム』じゃないか」


 それから二度と、そのピアノから音が流れることはありませんでした。

 男がその後どうなったのかは……ここには、敢えて書きません。

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