第3話 世界で一番 退屈な宿題

雨の音が、世界から他の音を奪い去っていた。



オレは傘も差さずに中庭に足を踏み入れ、ずぶ濡れになりながら練習を続ける少女――高坂陽菜の背後から、静かに声をかけた。



「その練習、無駄だぞ」



びくり、と彼女の肩が跳ねる。


ゆっくりと振り返ったその瞳が、驚きから、すぐに鋭い敵意へと変わるのを、オレはただ黙って見ていた。



「……誰だよ、アンタ。ボクの練習の邪魔しないでくれる?」


初めて聞く、彼女の一人称。


勝ち気な表情と、ショートの黄色い髪。そのイメージに違和感なく馴染む、ボーイッシュな響き。


だが、その声は雨音に負けそうなほどか細く、震えていた。

全身で精一杯、威嚇のポーズをとってはいるが、四十のおっさんから見れば、それは雨に濡れた子猫が必死に毛を逆立てているのと、大差ない。


「忠告してやってるだけだ。そんなやり方じゃ、どれだけ時間をかけても、お前はうまくならない」


「うっさいな!アンタにボクの何がわかるんだよ!」

「わかるさ」とオレは断言した。


「結果が出なくて焦ってる。とにかく手を動かしてないと、不安で潰れちまいそうなんだろ。それは努力じゃねえ。ただの自己満足だ。ぜん……っごほん! そういう奴を、何人も見てきた」


危ねえ。うっかり「前世で」と口走るところだった。


オレの咳払いを訝しむような顔をしながらも、陽菜は図星を突かれたように唇を噛む。

だが、彼女はまだ、最後のプライドで抵抗を続けた。


「……ボクは、やらなくちゃいけないんだよ! あいつみたいに、なりたくないから……!」


その言葉に、胸の奥がまたチリリと痛む。

ああ、やっぱりな。


「……先日、退学になった生徒のことか」

その一言が、彼女の最後のダムを決壊させた。

「っ……!」


陽菜の目から、雨なのか涙なのか、区別のつかない雫が、堰を切ったように溢れ出した。


「あいつは、ボクの、親友だったんだよ……!才能がないって、AIに言われて……記憶まで消されて……!次の評価テストで基準値を超えなければ、ボクも……! ボク、あの子みたいになりたくないんだよ…!」


嗚咽と共に吐き出された、魂の叫び。



四十年の人生で、聞き飽きるほど聞いてきた悲鳴だ。

成果を求められ、切り捨てられ、心を壊していく人間の、悲痛な声。



オレは、雨に濡れる彼女の前に、静かに歩み寄った。


「――じゃあ、オレがお前の『過程』を見ててやる」

「……は?」

涙でぐしゃぐしゃの顔で、陽菜がオレを見上げる。



「AIは結果しか見ない。だが、オレは違う。お前がどんな無駄な努力をして、どんな風に壁にぶち当たって、どうやってそれを乗り越えるのか。その全部を、見ててやる」


「……なんで、アンタが」


「オレがそうしたいからだ。いや……オレが、そうしなきゃいけないからだ」


これは、オレ自身の生存戦略だ。そして、同時に、救えなかったあいつへの、四十越しの贖罪でもある。



オレは制服の内ポケットから、濡れないようにビニールに入れていたメモパッドとペンを取り出した。



「まずは、最初の指導だ。よく聞け」


「……な、なんだよ」


「今日一日は、魔法の練習を一切禁止する」


「はぁ!? 馬鹿にしてんのか!そんなことできるわけないじゃんか!」


即座に、彼女が噛み付いてくる。その反応は、想定通りだ。


「うるせえ。これは命令だ。そして、代わりに宿題を出す」

オレはメモパッドに、数行の文字を書きつけて、彼女に突きつけた。



『これまでの人生で、一番楽しかったと思うこと。それを、思い出せる限り、具体的に書き出すこと』



「……は?」

陽菜は、メモに書かれた文字を、信じられないという顔で凝視している。


そして、次の瞬間、わなわなと震えながら、怒りを爆発させた。


「ふざけないでよ!こんなことやってる暇、ボクにはないんだよ!意味わかんない!」


「そうか? じゃあ、お前が今までやってきた『意味のある』練習とやらで、何か成果は出たのか?」


「ぐっ……!」


オレの冷静な問いに、彼女は言葉を詰まらせる。


「出てないだろ。なら、一度くらい、オレの言う『意味のわからない』やり方を試してみろ。どうせ失うものなんて、もうないんじゃないか? お前の親友とやらみたいに、全部消されちまう前に、な」



最後の一言は、少し意地が悪すぎたかもしれない。


陽菜の顔から、血の気が引いていくのがわかった。


だが、ここまで言わなければ、彼女の「頑張る」という名の呪いは解けない。

「……やるしかない、ってことかよ」



「そういうことだ」



陽菜はしばらくの間、オレの顔と手の中のメモを交互に見ていたが、やがて、諦めたように、ひったくるようにしてメモを受け取った。



「……わかったよ。やればいいんだろ、やれば!」


オレはそれだけ言うと、呆然と立ち尽くす彼女に背を向け、校舎へと戻り始めた。



背後で、陽菜が何かを叫んでいるのが聞こえたが、無視した。



世界で一番、退屈な宿題。



だが、それが、彼女の心を解き明かす、最初の鍵になる。

そして、オレの二度目の人生が、再び面倒事にまみれていく、始まりの合図でもあった。



口の端が、にやりと吊り上がるのを感じた。


……ああ、面倒くせえ。



だが、少しだけ。



ほんの少しだけ、面白くなってきたじゃねえか


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