誇るべき博愛主義者
わたねべ
誇るべき博愛主義者
私は自らを博愛主義者だと自称する。
これは、道徳的だからとか、慈悲の心にあふれているからだといったわけではない。むしろ、特定の個人に深く関わる能力がないからこそ、広く浅くすべてのものを愛するしかないのだ。
私は特定の個人に深いつながりを求めない。
だからこそ、他人の一挙手一投足に一喜一憂することはなく、誰かが私を裏切っても失望しない。特定の個人に入れ込まないこの距離感こそが、博愛主義の本質なのだ。
しかしながら最近は、その根本が揺らいでいるのを感じている。果たして博愛であることが本当に他者のためになるのか、という疑念だ。
その根底にあるのは、相手に喜んでほしい、みんな幸せになってほしいという、博愛の辞書的な意味に沿った気持ちだ。だが、博愛とは言い換えれば、薄っぺらい感情なのだ。
例えば円状に結ばれたロープがあったとしたら、その面積が注ぐことのできる最大限の愛情なのだとしよう。これよりも多くの愛をふりまくことはできない。その中で、私のいう博愛とは、その円をめいっぱい横に伸ばしたような状態だ。
こうすれば、愛を広い「幅」で多くの人に届けることは可能だ。しかし、その総量が有限である以上、「高さ」は薄く引き延ばされ、一人ひとりへの責任はほとんどゼロに近づく。
この責任の希薄さは、好意の基盤をもろくし、人によっては無責任な偽善として怒りすら覚えるかもしれない。
逆に円を縦に伸ばせば、「幅」は狭いが、「高さ」が生まれ、愛はより真摯になる。これは一人の人間への責任を深く負うことを意味し、家族に注ぐ愛情はこの類だろう。
ここで私は考えた。——愛とは何か。
まず初めに思いつくのは、やはり無償の愛だった。思うにこれは「家族」からしか得られない。ここでいう家族は血のつながりという意味ではない。養子であったり、事情があって一緒に暮らしている他人であっても、「親」としての役割を全うしているのであれば、そこに無償の愛は存在している。
しかしこの無償の愛とは非常に厄介なもので、互いの信用なしには絶対に認識することができない。なぜなら通常、人間関係とはギブアンドテイクの形で成り立っているからだ。
無償の愛のみが、そこから逸脱した本能的な行為であり、それを知らないものは、向けられた好意には必ず裏があると考える。もし、好意の裏に潜む思いを考えないとしたら、それはよほどの愚か者か、社会経験に乏しい人物であり、ある意味幸せな人間といえるかもしれない。
ゆえに、それを知らずに生きてきた者は、損得勘定を抜きにした行為に気づくことができない。
これは私自身の経験から導いた結論だ。私は、無償の愛を注がれていると確信したことがない。だから私は、向けられる好意に対して、常に「懐疑」を抱き、その裏にある意図を探ってしまう。
この「懐疑」こそが、私が博愛を選んだ理由でもある。
狭い範囲の人間に目を向けて最後まで責任を持つ愛は、信頼関係を前提とする。しかし私のように懐疑的な人間は、そうした損得勘定を包含しない、合理性のない愛を受け入れることができない。
この深く信頼できる愛の形は、博愛の対極にある存在であり、一人の人間に目を向けて最後まで責任を持つ。だからこそ私は自分のことを疑っているのだ。
さて、次に対極にあるといった博愛について考える。
もしもこの博愛が、無制限に湧き出るものであれば、無償の愛をすべての人類に注げるものであれば、それは最も尊い行為なのだろう。
しかし、現実はそうはいかない。有限の愛を振り分けなくてはならないのだ。
この前提をもとに見ると、博愛とは酷く薄っぺらく、何の責任も伴わない、自己満足の傲慢な行為ではないだろうか。ここでいったん、私が愛を有限だとしている理由について説明しておきたい。
それは、愛には責任が伴うから。そして、責任とは言葉の羅列ではなく、行動を起こした結果に起因していると考えるからだ。
困っている人に対して「大丈夫?」と声をかけることは果たして優しさなのか。私はそうは思わない。困っている人に対して優しさを示すのであれば、その根本の問題を解決するほかないのだ。
つまり「大丈夫?」と声をかけるのは、きっかけとしては非常に良いアプローチといえるが、解決までの道筋を示さないのであればそれは、自己満足の陶酔にすぎない。本来の意味で愛情を示すのであれば、原因を聞き、対策を練り、その不安を解消するために行動しなければならない。
そしてそうするためには当然時間がかかる。ゆえに、愛は有限なのだ。
有限の愛を多くの人に届けるためには、当然一人あたりにかける時間を薄める必要があり、結果としてそれは無責任な、行動の伴わない優しさに姿を変える。私が信じた博愛は、ただの無責任な自己満足にすぎないのだ。
しかしそれでも私は博愛を貫く。なぜなら私がその優しさに助けられたからだ。
きっと私にその愛を分けてくれた人は、当たり前で、なんてことない行動だったのだろう。しかし、無償の愛を知らない、疑い深い私にとってはその重さのない優しさは、「理解できる優しさ」として受け入れることができたからだ。
そして、「気にかけてくれる人がいる」ということもまた、その薄い優しさを受け取ったものにとっては事実なのだ。それが、無責任なものであろうとなかろうと、自身に目を向けてくれる存在がいるということが、どれだけ小さくても居場所があるということが大切なのだ。
そしてそれは、自身が不安になった時に、再びその姿を表す。たとえどんなに小さなものであっても、それを認識した時には、確実に心が前向きになるのだ。
偽善とさえ言えるほどフラットで合理的な、理由のある優しさだからこそ受け入れられることもある。
もしも、その時に卑屈な気分になっていれば、「バカにするなよ」と思うこともあるだろう。しかし、ある程度成熟した、賢い人間であれば、たとえ偽善であっても、それはとても尊い行為だと気づく。
なお、ここでいう成熟とは、自立していて社会経験がある状態を指し、賢さとは衝動的でないことを意味する。
なぜならそれは、決して実を結ぶ行為でもなく、本能的なものでもないのに、ただ、他者を思い手を伸ばす行為だからだ。成熟していない状態でその行為を見れば、ただのいい人に映るだろう。賢くなければ、その行為を無駄なものと一蹴するだろう。
だがその行為は、行動者に対するリターンが少ないにもかかわらず、より多くの心を救う可能性を秘めているのだ。
博愛とは、責任ある愛情とは、最も遠い行為だ。それでも私はすべての人を愛し続ける。
しかし私の考える博愛は、少し意味を変質させた。世界中すべての人を愛することはできないし、私にはそこまでの責任もない。
それでも自身を博愛主義者だと思い続けるのは、この目に映る範囲で、すべての人を平等に扱いたいからだ。きっと今までもそうだったのだろう。なぜなら、見たことの無い人に愛を分け与えることなど不可能なのだから。
では、実際に見たことのない人へ愛を分け与える行為は可能だろうか。募金やボランティアなど、間接的な施しはその類に見える。しかし、これらは私が求める形ではない。
これらは「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」の精神の現代的な変容だ。これは、持つ者は持たざる者に施しを与えるべきという、上から目線の義務であり、行為の裏には優越感と、その地位を維持したいという合理的意図が潜んでいるように思えて仕方がない。
この義務に基づく施しは、社会にとって必要不可欠な「善い行い」であることに疑いの余地はないが、平等な目線で手を差し出す私の博愛とは一線を画している。
さらに言えば、これらの行為は愛の「責任」を自ら負わず、その遂行を支援団体という他者に委ねてしまう。自己満足の偽善である私の博愛と比べても、これは責任を丸投げした上で、優越感まで得ようとする、より計算高く、巧妙な義務の遂行に過ぎないのだ。
そのため、目の届く範囲で私は今日も、すべての人に平等に愛を注ぐ。
目の届く範囲というのは曖昧だろうか。それならば、私が言葉を交わした人と言い換えてもいい。何かしら私とコミュニケーションを取った人間だ。
それくらいならば、私のお節介な博愛主義は、誰かがつらく悲しい時に思い出してもらえるくらいには作用するだろう。
博愛と愛は、やはり異なる。
それは、縦に伸ばすと、狭い範囲に深く刺さる「責任ある愛」となり、横に伸ばすと、広い範囲に少しだけ引っかかる「普遍的な優しさ」に姿を変える。
私が抱いた疑念は、その責任の希薄さに向けられたものであり、同時に、その柔軟性に対する可能性でもあった。
私は理解している。私の博愛は、責任の遂行を放棄した、自己満足の偽善であると。
それでも、私はこの形を選ぶ。なぜなら、他に選びようがないからだ。
深い愛を持つ能力のない私には、この薄い優しさしか持ち合わせがない。「それが誰かにとって、わずかな支えになるかもしれない」そう信じることで、私はかろうじて自分を保っている。
そして今日も、諦念と受容の果てに、この目に映る範囲の他者へ、怠惰から生まれた博愛をふりまき続ける。
それは、積極的に選び取った理想ではなく、深く関わる勇気も労力も持たぬ者が、せめての倫理としてまとった酷く貧相な装甲だ。
それでもなお、この怠惰から生まれた理念が、私を幾度か救ってきたこともまた事実である。
私は特定の個人に深いつながりを求めない。
しかしこれは、誰に対しても冷たくあるわけではない。むしろ、心底では深い「つながり」を求めているからこそ、そのつながりが「懐疑」によって断ち切られてしまうことを恐れ、深くかかわることを避けているのだ。
だから私は、この薄く引き伸ばされた優しさを差し出すことしかしない。
この愚かしくも誇らしいものを手に、今日も私は博愛主義者を自称するのだ。
誇るべき博愛主義者 わたねべ @watanebe
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます