御気楽、極楽、安楽公

河野 行成

御気楽、極楽、安楽公

 蜀の建康十四年、観阪と呼ばれる地にときならぬ人物が立っていた。供のものを下がらせて、河を見つめている。やがて揚子江へと続く河は、このあたりではまだ細い。細いといっても、余程の膂力があるものでないと、対岸まで矢を射れはしまい、そういう細さである。その上に流れは結構きつい。きついからゆえ、岸は薬研堀やげんぼりの如く、斜めに傾いでいる。その一角に腰掛けを運ばせて、延々と河を見ているようであった。河を観る事数刻、しかしその視線は果して河を追っているのだろうか、ときに流れてくる柴や流木を、目は追っていかなかった。

 その人物がぽつりと言った「光禄大夫は居らぬか?」

 すると、下がっていた周は、不意に呼ばれて慌てたものの、すぐさま控えた。

「お呼びに御座いますか?」

「うむ。河は流れるものよう」

「はっ、はい」

 周は時に脈絡なく話される主公の質問にどぎまぎさせられる。それでも、世の人に暗愚ではないかと言われる主公に情愛を感じていた。ここ数日、河を見ると言うと、ずっと日がな一日見続けている。英邁さとは受け取れない。余人なら愛想も尽かすかもしれないが、周にはそこに暖かいものを感じていた。

「流れますとも」

「やってくれば、また去っていく」

「・・・左様に御座います」

「時の流れも同じか?」

「左様に御座います」

「世の流れも同じか?」

「左様に御座います」

「朕は、夢を何度も見た。世は流れるものよう」

「はあ」と恐る恐る周は主公の顔を窺った。

 主公の顔は依然と変わらず、にこやかなまま。父親と同じく、感情を隠すのが旨い。

「国が生まれ、やがて滅ぶ。そんな夢ばかりを、朕は見た。戦いの後に栄耀栄華もあったが、民は苦しむ。国が生まれる時、民は苦しみ、国が疲弊し、その結果、滅ぶとしても民は苦しむ。いつもながらに」

「河の流れと同じく、来るものは去り、興るものは亡くなるものに御座います」

 ここに至って、主公が何を考えていたか、周は悟った。しかし、周は主公が夢に見たと言った意味を読み違えた。それもその筈、主公は河を見て河を見ず、夢を見て夢を見ずであったから。もっとも主公は一言だにしなかった。

「亮が逝って、二年になるのお」主公は、漠たる表情のままそう言う。その声音からは、何の感慨も受け取れない。

「大丈夫で御座います。丞相閣下が残された英邁二方おりますゆえ」

 周は直接、死の床にある亮から、その二名、蒋費の名を聞き出したのであった。

「うむ。そう中原に帰るのを焦らずともよかろう」と、脇から見ているとちぐはぐなことを言う。

「陛下・・・」

 周は、冷や汗を流しだした。もしやとの思いが、胃を締め付ける。

「皆のもの、夕刻まで朕は、光禄大夫とのみ語る事にする。暑かろう、木陰で休むがよい」

 主公にそう言われると、既に下がらさせられていた面々は、それ以上下がることが出来ないので、坂を下りていった。


 魏の景初五年、大将軍司馬昭、後の文王は下した蜀の後主劉公嗣を洛陽に移させた。後主に付き従うものは数名にしか過ぎなかった。その車の中で、劉公嗣は常日頃のように鷹揚に構えていた。

 その話を聞いた文王は「ふん、どれくらいの肝か試してやろう」と内心思い、こう言った「劉公嗣は酒色に逸脱し国を誤った、よって後世の為にこれを除くようにと、上奏するように」。

 劉公嗣はそれを伝え聞くと、いかにも青ざめた。百官は文王を諌めた。文王は元よりその気はなく、「肝があれば、殺す必要もあろうが」と思い、「さすれば、王侯ゆえ封ぜずばなりますまい」と安楽公に封ずるように上奏した。

 とはいえ、猜疑心の強い文王は、安楽公の身辺を窺った。安楽公は魏の音楽を聴いても、蜀の音楽を聴いてもにこにことしている。従臣が蜀の音楽を聴いてははらはらと涙を流すのに対して際だっていた。

 文王はつぶやいた「情の薄い奴よのう、亮でも、ましてや維ではどうにもならん」

 文王は安楽公に尋ねた「お国は懐かしくありませんか」

 安楽公は答えて「いや、それほどは。彼の地は蒸し暑く、病の為若死にするのが多くて、この地程快適ではございません。文化にしても、彼の地は鄙びています」と言う。

 安楽公の臣の郤正は見兼ねて、手洗いに立つ安楽公を追い「なんと薄情なことをおっしゃられますか。『蜀には祖先の墓もあり、一日とて忘れた日はございません』とおっしゃり、涙を流せられば、哀れんでもいただけましょうに」と言った。

 安楽公は郤正の目を見て嘆息すると、頷いた。

 戻ってきた安楽公にしばらくして、にやりとしながら文王が尋ねる「そうは言っても、祖国は懐かしいものでしょう」

 そこで安楽公「蜀には祖先の墓もあり」と涙を流すふりを交え、「一日たりとて忘れた日はございません」と言う。

 文王は吹き出しそうになりながら「これはこれは正の言に似てますなあ」と言う。

 安楽公は寝耳に水といった趣で「如何にもその通りです」と答える。

 これには、文王他は堪え切れず、腹の底から笑う。しかし、安楽公は手洗いの方向を見て、震えていたが、その震えもその理由も哄笑の渦中ではけどられなかった。


 流石の文王も以後、安楽公を警戒しなくなった。その後、文王も亡くなり、呉も平定まじかの、晋の泰平の世となった。

 安楽公が亡くなったのは、その晋の泰始七年である。しかし、その遺言は一部の親族が知るのみである。

 安楽公は言う「父は備え、自分は禅る跡継ぎ(公嗣)と言われたが、それも良いだろう。何故それでいけないのだろう? 身を処し、国を統べる必要はない筈だが、父は富貴を望んで国を立て、亮はそれを維持するのに汲々となり、亮の残した蒋費の二文官は亮の遺命を継ぐのみ、維に到っては、名を追いかけ中原を望む。古に聞く望帝ぼうてい杜宇とうを望まぬまでも、民を救うのが王侯の努めなら、文化・政治の中枢に下るのが当然ではないか? 私は何度も仄めかした。しかし、その度に臣の目は冷たい蔑んだものだった。只それを知るのは昨年亡くなった周のみであった。もしも、直接にそういえば廃されて蜀を他の人物に渡すことになる。そうすれば、蜀は保たれるかもしれないが、中華が統一されず、戦乱は続く。それを妨げるには、やはり廃されず国を傾けるしかない。周と私はそう図った。実に楽な計画であった。馬鹿は幾ら賢い振りをしてもやはり自ずと知れるものである。しかし、馬鹿の振りをするのは簡単であり、しかも、十分の富貴を味わえたのだから気楽なものだ。まさに安楽公よのう。けれど、私は名もいらないし、王侯である身もいらない。こういうといかにも愚鈍のように聴こえるが、単に生まれる時代を間違えたのだ。しかし、この事実を他に知らせるでない。言ったところでこの事は信じては貰えないだろうが、それでも父と亮と維の名を傷つけたくないからだ」

「なぜ、人は自分の国のみを心がける。ああ蜀魂ほととぎすよ、何処へ行く」

 魏に入って以来、この時始めて安楽公は涙を流し、あの世というのがあれば、そこへ旅立った。何かしら世人の持たない力があったとは、微塵にも見せず。

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御気楽、極楽、安楽公 河野 行成 @kouzeikouno

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