おわりに
それ以降のナスターシャは、以前と比べて変わっていた。第一に、性格が明るくなった。以前の控えめな言動から、力が芽生えていた。背筋もしっかり伸ばして、声もはきはきと大きかった。表情も自信のある様子だった。次に、明らかに元気があった。以前は緊張したり、何かストレスがあると、胸の痛みを訴えていたが、今の彼女はそんなもの知らないかのように、森を駆け回っていた。夜もある程度遅くまで起きていられるし、朝も早く起きられるようになった。目覚めも心地良さそうだった。おそらく病前の彼女はこのようだったのだろう。他人の罪から解放された彼女は、まるで普通の少女のように朗らかだった。きっと悪霊があの神秘性を全て持ち去ってしまったのだろう。修道院へ行くこともなくなり、今は公爵家の娘として穏やかに過ごしている。夏が終わった後も、彼女との関係は続いている。毎月ペテルブルグへ手紙が送られてくるのだ。公爵家で起こったことや、自分の話を伝えてくれる。私も、返事を書いては、また次の月が来るのを楽しみにしている。催眠術を忘れてしまった彼女を、イリーナはそれでも孫のように扱っているとか。エリョーマもモスクワに戻って学業に専念している。その間、リザヴェータとその子供の世話は、ナスターシャとアマーリエ、そしてワルワーラに任せられた。セルゲイも赤子の遊び相手をするそうだ。リザヴェータは負担の大きな高齢出産の影響で、痴呆のようになってしまった。しかし、以前の優しさは失わずに、家族に囲まれて穏やかに笑っているそうだ。私は、毎年夏に秘書見習いとして、公爵家に手伝いに行くようになった。エリョーマも母と妹の様子を見に、夏に帰ってくる。ドゥーニャこと、アヴドーチャ イワーノヴナ コンドラーチエワはすくすくと元気に育っている。母に似た優しい子である。しかし、森で遊ぶナスターシャやセルゲイに育てられているせいか、少々野生児じみたところがある。最近はワルワーラの真似をして扇子を持ちはじめたようだ。ルドヴィカとは、夏がくるたびに会っている。随分と背が伸びて凛々しくなった。相変わらず、多くの同級生を従えているそうだが。最近は大尉と呼ばれるようになったとか。四年の月日が経って、大学を卒業した私は新聞社に勤めている。ミハイル プロフォーリエヴィチとその娘に関する調査結果は、いまだに封印してある。エリョーマは医学部を卒業して、モスクワで一年の臨床研修に勤めている。研修が終わったら、ゴロウホフスカヤで医者になるそうだ。最近、ナスターシャは自分の過去が気になるらしい。しかし私は手帖を見せられなかった。これで彼女がまた神秘性を取り戻すことになったらと思うと、どうしてもできなかった。しかし、今年とある出来事が起こった。イリーナが死んだのだ。心臓を悪くしたらしい。家族みんなに見守られて亡くなった。最後にミハイル プロフォーリエヴィチの顔が見たかったと嘆いて。ナスターシャは今、父の顔を知らない。しかし、父の話を周りから聞くたびに、彼のことが気になって仕方ないらしい。彼が娘をどう思っていたか、そんなことを考えてしまうとか。私は悩んだ。しかしあるとき、彼女は手紙で話した。
”それが自分の運命ならば受け入れなければいけない”
私はあの時の亡霊との会話を思い出した。自由とは運命を受け入れること・・・・。彼女は自由を望んでいる。ならば私はそれに跪くべきじゃないのか・・・・。私は、手帳を取り出して、全ての出来事をこの手記にまとめた。そしてその手記をゴロウホフスカヤへ送った。以下はこれを読んだ彼女の返信である。
親愛なるアンドレイ シャルルエーヴィチへ
こんにちは。ナスターシャです。私が過去を知りたいと言ったら、あんなに分厚い手記を送られてきて驚きました。お勤めで忙しいのに一生懸命書いてくださったんですね。まず、お礼を言います。私のことを真剣に考えくれたことが伝わりました。まず全体の感想として、あなたの視点を中心にして書かれていたことが面白かったです。あなたがあの時何を思っていたのか、私も気になっていました。私があなたの葛藤の原因になっていたなんて、今のあなたの様子からは想像ができませんでした。だって、今のあなたはまるで神父さまの様に穏やかに優しく、暖かく包み込んでくれるから。でもそれはきっと、あなたが初めからいい人だったからなのかもかもしれませんね。
では、順番に話していきます。お祖母さまは最後にお父さんの顔が見たかったと仰っていました。それほどまでにお父さんを愛していらっしゃったのですね。私を警戒していたことも、私の知っているお祖母さまからは想像もできません。お祖母さまは、リウマチで痛む手を私がさするたびに、ありがとうありがとうと感謝をしてくださいました。お姉さまは私を今でも妹として扱ってくれて・・・・。お茶会にも連れて行ってくれます。ドゥーニャのことも、セリョージャ以上に手のかかる妹だわって文句を言うけれど、外で遊んでばかりの私たちの代わりに、貴族としての所作を教えてあげています。お姉さまは私とあなたの関係が気になっていたのですね。きっと今のあなたを見て満足しているはずですよ。セリョージャは変わらないですね。彼は今でも子供達と遊んでいます。しかし、子供たちも大きくなって、今では逆に遊ばれている様子で・・・・。でも、このままじゃいけないと思ったのか、最近はルミャンツェフ将軍家で経営のお手伝いをする様になりました。毎日のように、お姉さまの友達にちょっかいをかけられて、うんざりして帰ってくるけれど、仕事は楽しい様です。彼、意外な才能が見つかったんです。とっても上手な字を速く書けるんです。このまま将軍家の書記として働いたらどうかと言われています。彼はいろいろな人に好かれるから、きっと何があってもたくさんの人が助けてくれるでしょう。お兄さまは昔から格好良かったのですね。相変わらずどっしりと構えて、私たちを見守ってくれています。記憶がない私にも、あなたは公爵家の一員だと言ってくれて・・・・。エリョーマは、毎年帰っては、伯母さまに寄り添って、ドゥーニャには本の読み聞かせをしてあげています。三人だけの家族です。静かな時間を邪魔しないように、私たちも見守る様にしています。夏の間は、毎週日曜日に一緒に教会へ行きます。彼も神様を信じているのですね。なぜかと聞いたら、こうすれば心を知られるから、と言っていました。エリョーマはきっと、伯母さまを助けるために、私に心とは何なのかを聞こうとしていたのでしょうね。伯母さまは本当に穏やかです。でも、一人でいると寂しくなってしまうようなので、いつも私たちで寄り添っています。家長の伯父さまも、彼女に会いに行っては、手を握ってあげています。ドゥーニャは本当に大きくなりました。子どもの成長は早いですね。マリーナのジャムが大好物なんです。私と一緒に森で摘んできては、グリータが作ってくれます。お母さんの伯母さまとはお話はできないけれど、伯母さまはドゥーニャを見ると、優しく笑いかけて撫でてくれます。ドゥーニャはそんな時間が大好きなんだそうです。エリョーマも、夏にしか帰ってこないから、夏の終わり頃には彼にくっついて大泣きするんです。エリョーマも離れるのが惜しい様子で・・・・でも、自分がお医者さんになったら毎日でも遊ぼうと約束していました。アマーリエは今でも元気です。本当に元気で、心配するのも恥ずかしいくらい。フョードルは、最近は腰が痛くて休むことが増えました。その分アマーリエが代わりに頑張っています。マーシャはフョードルの娘なんだそうですね、父を心配しています。サーシャは相変わらず臆病ですが、淹れてくれるお茶はいつも美味しいです。
私は病気だったのですね。今の私からは考えられません。なぜって、今はこんなに力が溢れてくるし。朝目が覚めるととっても心地がいいんですもの。胸が痛くなったことなんて一度もありません。そんな私をお父さんはとても心配していたんですね。それでも、不安を見せずに私を見守ってくれていたなんて、すごい方だと思います。そんな方だからこそ、私も全てを預けられたのでしょうね。私、結構危ない行動をしてばかりですね。これでは父も手が離せないのがわかります。あなたが気を揉んでいたのも。なんだか申し訳ないです。パパやお母さんのことをあんなふうに解決してみせたなんて、今の私でも同じことができるでしょうか・・。でも、あなたを見ているとわかります。人には元からその様な魂があるってことを。いや、霊的な愛情かな・・・・? (エリョーマの言葉を借りました)手記の中では跪く、と仰っていましたね。あなたは最初に野望に跪いて、最後に私を通して神様に跪きました。父も同じく。幼い私も、父を通して神様に跪くことを知ったのかもしれません。神様に跪くとは、まるで服従している様に聞こえますが、実際は解放なんです。あなたは言いましたね、天上のパンと。神様に跪くとは、天上のパンを口にするということです。人は天から生まれたものだから、天のものを口にすれば本当の意味で生きることができます。本当の生は安らぎをもたらします。安らぎの中に自由があるのです。父は・・・・、自由になりたかったのですね。自由の意味というものはとっても難しいです。皆、求めているものは同じなのに、同じ様には想像できないんです。ある人は、誰とも距離を置く孤独を。ある人は、楽しさを突き詰める享楽を。そしてある人は、何もかもを信じないで破壊する虚無を。でも皆、そこに行き着くと、何かが違うと悩むのです。実感したことのないものは想像できません。だから人は間違えてしまう。だから父はたくさん間違えてしまった。でも、父は最後に知られたのですね。安らぎというものを、天に身を任せるということを。私がスイスで病気の間、温かさを感じていたとあります。きっとそれが安らぎだったのでしょう。そして、私が眠っている時、あなたの優しい声が聞こえていました。あなたがその手を包んでくれた時、きっと心が温かくなったのだと思います。あなたも、自由について葛藤していたんですね。エリョーマと亡霊が言っていた破壊と再生、私の突飛な行動や、信念が、あなたをたくさん悩ませてしまった様ですね。でもあなたは、破壊されたままではいなかった。それでも私を愛そうと向き合い続けてくれた。だからきっと、生まれ変われたのでしょうね。この破壊と再生は、私だけの力ではありません。あなたが変わりたいと願ったから、それでも生きようと一生懸命足掻いたからですよ。そんなあなたを見たから、亡霊も、最後に祝ってくれたのでしょう。愛こそが、人を生き返らせるのです。愛こそが心を救うのです。エリョーマは言葉にするのが上手ですね。私はお父さんの愛の献身によって回復した。そして再び、あなたの愛によって目覚めた。リヒテンシュタインは私を善をなす女だと言いました。看護婦だと。しかし、私だけがドブロデーヤなんかではありません。みんな看護婦になれるのです。それは神様が与えてくれた、たった一つの奇跡です。その奇跡に気づけば、誰だって人の心を救えるでしょう。霊的な愛情とは、ただの親しみとは違うのです。魂と魂が手を繋いで抱き合うような・・・・神様が私たちを楽園から送り出した時から、ずっと、その手は繋がれているのです。そしてまた、再び抱きしめ合って、接吻する日を待っています。信じています。私とあなたの魂も、手を結びました。そしてこれからもきっと離しません。
最後に、私のわがままを聞いてくれますか? 私をペテルブルグへ連れて行ってください。私がお父さんと暮らした下宿を見てみたいし、そこのおばさまとおじさま、カーチャに会いたいです。そして、パパやお母さんにも・・・・。今度は、新しい私の目線で、みんなを見てみたい。そして、もう一度ペテルブルグの街を案内してください。今のあなたと共に私の古き故郷を見てみたい。今度は、あなたが私の手を引いて導いてください。そしてお父さんが帰ったら、一緒に、おかえりなさいって言いましょうね。
今日まで私を愛してくれてありがとうございます。あなたが包み込んでくれるから、私もみんなを包み込める。あなたの愛は私を通してみんなに広がっています。私が伯母さまに泣きついていた時、いったい誰のことで泣いていたのでしょう。しかし、今ならわかります。これからも一緒に、星を見て、綺麗だなって、涙を流しましょうね。
あなたを愛するナスターシャより
ドブロデーヤ 尾崎硝 @Thessaloniki_304
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