関係

箔塔落 HAKUTOU Ochiru

関係

 浴室のドアを開けたヒイラギは、おれがほんとうに死んでいることに多少のショックは受けたようだが、はたしてそれは、動揺、と呼べるほどのものではなかった。ヒイラギはゆっくりとおれに歩み寄ると、赤く染まった湯船をしばらく見つめ、

「ばかかもな」

 ひとりごとのようにそう言った。その「ばか」というのが、おれのことなのか、ヒイラギ自身のことなのか、おれにはわからない。ましてやそこに「かも」がついている理由なんて。

 ヒイラギは腕まくりをすると、おれの脇の下に手を差し入れ、軽く顔を顰める。

「おもてえな」

 そう言いながら、浴槽で頸動脈を切ったおれを、たっぷりの湯から(なぜだろう、いつものように、座った時には膝の突き出る程度の量の湯ではなく、なみなみとした湯に入って頸動脈を切りたい、と自死する直前に思ったのだ)すくいあげたヒイラギは、おれを脱衣所に一度横たえ、バスタオルでおれの体を拭くと、用意してあった寝袋におれを詰め込んだ。

「ありがとう」

 おれが礼を言うと、ヒイラギはいつもの憮然とした顔——「誤用」とされる用法としての「憮然」と思ってほしい——で口を開いたが、すぐに顔を俯けて、

「はやく行くぞ」

 と、おれを促す。

「そうだな」

 おれもうなずく。

 アパートの近くのコインパーキングにセダンは止めてあった。ヒイラギは彼のふだんの粗暴さからは考えられないくらい丁重に、おれの死体の入った寝袋を後部座席に横たえる。彼のふだんの粗暴さに見合った音を立てて後部座席のドアが閉まり、運転席に乗り込んだヒイラギは、

「で、おまえついてくんの?」

「もちろん」

 おれはうなずくと助手席のドアを開けて車内にすべりこみ、シートベルトを締めた。もちろん、おれは生きていないのだから、シートベルトなど締めたところであんまり意味はないのだが。ルームミラーの位置を調整しながら、ヒイラギはふと尋ねる。

「で、どっち?」

「どっち、とは?」

「海派? 山派?」

「ああ、おれの死体を不法投棄する場所?」

「不法投棄いうな」

「そうだな……」

 山かな、と言ったのに、深い考えがあってのことではなかった。ヒイラギとは海に行ったことも山に行ったこともない。ただ、予備校でよく席がとなりになっただけの間柄だ。ときどきは同じ自販機で同じ缶コーヒーを買って飲んだりもした。でも、それだけ。少なくとも、表面的にはそれ以上を語りうることばを、おれは持たない。

「安全運転でたのむよー」

 おれが茶化すと、

「うっせえわ」

 と、ヒイラギは答え、アクセルをぐっと踏み込んだ。

 ドライブのあいだじゅう、おれはしおらしく窓の外を見つめつづけていた――なんてことはなく、しょっちゅうヒイラギにちょっかいをかけていた。ヒイラギはいつものように、おれの言うことを蚊や蠅ほどにももてなしてくれなかったが。でも、ときどきルームミラー越しに後部座席に一瞥をくれていた。そりゃあ深夜と言えども、後部座席に死体を乗せているんだから、気になるよな、と思う。でも、おれには罪悪感はほとんどなかった。少なくとも、ヒイラギにとって良くないことをさせようとしている、その点に関して言うならば。ただ、「ヒイラギを利用する形になっている」、そのことには少々、脈打つはずのない心臓が痛むような気になった。

 意外なことに、ヒイラギは危なげのない運転だった。今すぐにでも、赤の他人の死体を運ぶ、霊柩車の運転手になれそうなくらいに。

 そんなふうに考えて、ああ、そうか、と思う。

 赤の他人の死体を運んでいるからヒイラギの運転は丁寧なのだな、と得心がいったからである。

 ぽつぽつと時折流れていた窓の外の光が、しだいしだいに数を減らしていき、それにつれて世界の輪郭もすこしずつあいまいになっていく。否、世界の輪郭があいまいになっていっているのは、おれが死んでるからかもな、とも思う。でも、車がトンネルに入ると、まだ耳のなかに空気の塊をつめこまれたような感覚になる。おれは耳抜きをするためにあくびをする。

「寝ててもいいぞ」

 おれが眠いのだと勘違いしたヒイラギがそういうから、おれは微笑を浮かべざるを得ない。でも、そうしたらほんとうに少し眠くなってきた気がして、おれは一瞬目を閉じる。目を開ける。おれの肉体に、たのんだわけでもないのについていた目が朝日をとらえることは、もう二度とないのだな、と思う。

 やがて、車のエンジンが停止した。さすがにおれといえども、多少の緊張感をおぼえた。もしおれがまだ生きていたら、過呼吸を起こしていたかもしれない。けれども、死んでしまったおれは、いくら呼吸のしかたを忘れたところでいっこうに問題がない。運転席のドアをヒイラギが開ける。もしヒイラギが運転席のドアを閉めたら――そうかすかにおれは思う。でも、閉めたらいったいなんだというのだろう? でもヒイラギが運転席のドアを閉めずに後部座席のドアを開けたことに、なぜかおれはほっとした。そういう細かいことの積み重ねだ。そういう細かいことの積み重ねが――でもやはり、そのつづきを、おれはうまく言語化できない。おれはシートベルトを外すと助手席のドアを開ける。ヒイラギは、おれの死体をたとえば引きずることだってできたのに、肩に担いでいた。重さに苦しんでいるであろうその顔を、まなざしを、おれは見てみたいと思った。けれども結局見なかった。ガードレールの前でヒイラギは一瞬立ち止まる。そうして、ヒイラギは、一度寝袋をおろした。後ろからでもヒイラギが、両手を合わせて祈ったのがわかった。もしもこの瞬間、おれに流す涙というものがあったのなら、うおんうおんと泣いていたことだろう。けれども死者は、涙をもたない存在になるようだった。あるいは、涙を自身に連れてくる感情をもたない存在に。おれは黙ったまま、ヒイラギがふたたび寝袋を担ぎ上げ、おれの死体をガードレールの向こう側に放り投げるのを見る。なんとなく、そういう瞬間はスローモーションで頭に刻まれるものかも、とおれは思っていたけれども、決してそんなことはなかった。おれの死体はあっというまに谷底に落ちていった。

 ヒイラギが肩を落とす。

「それで」

 こちらを振り向きもせずにヒイラギが言う。

「それで?」

「それでこれから、おれはどうすればいいんだ?」

 いつものヒイラギらしい、つっけんどんでどこか怒ったような口調。どこか怒ったような? いや、ほんとうに怒っているだろうな、と思う。なにしろこの国において、死体遺棄は犯罪なので。犯罪。おれはヒイラギに罪を犯させた。消えないスティグマを与えた。悪いことをしたな、とおれは思う。その反面、えたいのしれない、これまで味わったことのないような快感が、おれのとっくの崖の下に墜落したはずの脳髄を突き抜けるのも感じる。おれには確信があった。その気持ちは、ヒイラギが対象だからこそ感じるものだ、という確信が。それは、ほかのだれでもだめだっただろう、という確信が。

「死んでも無責任なやつだな」

 おれが返事をしないまにヒイラギはそうつづける。そうして、ばかだな、と口にする。相変わらずおれには、その「ばか」という罵倒語が、おれに向けられたものなのかヒイラギ自身に向けられたものなのかわからない。ヒイラギはふと、こぶしで目元をごしごしぬぐう。ヒイラギは生きている。生きているのだから、人の死に際して涙が出ることもあるだろう。それは特別なことではない、まったくの普通の顔だ。

「たぶんちがうな」

 ヒイラギはそう言うと、おれのほうを振り返る。むすっとした顔でヒイラギはつづける。

「なにがちがう」

「なにもかもが」

 ヒイラギは、一瞬おれを嘲るように見ると、すぐにその表情を後悔したように、おおきく息を吐く。

「認めるのは業腹ごうはらだけどさ、おれは『おまえが死んだ』からかなしいんだよ。でも、『おまえがおれに自分の死体を運ばせてくれた』ことは、なんでだか死ぬほど――この言い方は不謹慎か? まあいいや。死ぬほどうれしかったんだよ。わかんねえけど、おまえもそんなふうな感じなんだろ? 死体を運んだのがおれで良かったと思ってるだろ? おれたちはきっと、名前はつけようがないし、個人的には名前なんかついてたまるかと思う異常さだと思うけど、おれたちは結局のところ、そういう関係なんだと思う」

「そういう関係」

「そう」

 おれはヒイラギをじっと見つめる。ヒイラギもおれをじっと見つめ返す。どちらからともなく、ではなかった。確かにヒイラギのほうからだった。手をたたいて笑いだしたのは。だからおれも手をたたいて笑い出したのだ。流れるはずのない涙が流れるのを待つような、無粋な真似はいっさいせずに。山並の遥か上に満月がのぼっている。成仏しても、おれはヒイラギのことを忘れないだろうと思う。

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