冬亡者

士ノ流人

 

 大寒の夜の冷気は暖房のないムショ暮らしに慣れた身にも応えた。吹きすさぶ寒風に首を窄め、濃紫のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、少しでも暖かくなるよう、手足を大きく振って歩を進めてゆく。片側二車線の国道沿いには集合住宅や飲食店の灯りが点々としている。

 更生保護施設を脱走したのは夕暮れ前のことだった。更生保護施設ってのは仲間内では『保護会』って呼ばれてる、身元引受人のない出所者を受け入れるところ。ムショ上がりの集まりだから住環境は言わずもがなで、俺があてがわれた集団部屋の古ダヌキは最低のクソだった。タバコの使い走りから始まって、コインランドリー代の肩代わり、ギャンブルでスったとぬかして金の無心までして来やがった。それでも一週間は耐えたが、ムショでのいじめに爆発した時みてぇに、ついに我慢の限界が来た。あの野郎、誰から仕入れたんだか俺の出自を嘲笑ってきやがった。さすがにブチギレて、頭を蹴飛ばしたり壁にぶつけたりして半殺しにしたあと、他の部屋から出てきた奴らを振り切って逃げた。床にノビたのを横目に部屋を出たから奴の生死は分からない。途中でサイレンを鳴らす救急車とすれ違ったから死んではいないと思うが、正直、どっちだっていい。

 上着の中に入れてある財布の中は三千円と少し。預金通帳には十万円ほど残っているが、逃亡資金としてはそれでも物足りない。どこかで住み込みの仕事でも見つけない限り、数ヶ月しか持たないだろう。

髪に違和感を覚えて黒ずんだ空を見上げると、みぞれが降ってきていた。

 ただでさえ寒い中なのに。ダウンのフードを被せながら舌打ちする。

スマホも地図もない中では、安城という街にいること以外、何にも分からない。ただ寒さを紛らわせるのと、サツから逃げるためにあてもなくただ歩き続けているだけだ。

 行くとしたら、どこがいいだろう。

 止まらない鼻水をすすりながら考える。 

 ちいせぇ街より、でかい街の方が人ごみに紛れられてサツの手を潜り抜けやすいだろう。ここから一番近くにある大都市といえば――名古屋か。まずは名古屋に行こう。とはいっても、ここから一番近い駅すら分からない。もうニ十キロは歩いていると思うが、道路の案内標識以外、頼りになるものはないし、たまに見かける案内板も錆び付いていて意味をなさない。

 案内標識だけを頼りにひたすら歩き続けていても、いずれは名古屋に辿り着けるかもしれない。だがこんな真冬の中じゃ、名古屋に着く前に体力の限界が来るだろう。

降り止まない霙はダウンを濡らし、体温も体力も徐々に奪ってゆく。足元から始まった寒気は今や両手にも及んでいる。このままでは凍死するかもしれない。

 足を止め、長く大きなため息をつく。

 脱走なんかせず、大人しく現行犯で捕まってた方が良かったかもしれない。犯罪者への風当たりが厳しいシャバなんかより、ムショにいる方が遥かに楽なんだから。ムショが恋しい。雨露がしのげて天災にも耐えられる、家賃ゼロの頑丈な施設。橙と深緑のツートンカラーのせんべい布団と、黒地のよく分からない模様の入った茶色の毛布。あれにくるまれていたい……。

 シャバは自由だ。そんなのは言うまでもない。だが、その自由には際限がない。際限がない自由は、際限がない孤独をも伴う。シャバでは孤独死が増えている。ムショにいた時、テレビのニュース番組でそう聞いたことがある。中には発見が遅れて腐乱死体で見つかることもあるらしい。ムショじゃそんなのはありえない。オヤジたちがいるから死んだらすぐに発見されるし、監視されてる以上、真の孤独を味わうこともない。苦しみだっておんなじだ。ムショもムショなりの苦しみはあるけど、制限された環境の中じゃ苦しみの種類や範囲は知れている。だからいったん慣れてしまえば、ムショの苦しみなんてさほどでもなくなる。だが社会の苦しみには際限がない。それに、いつ、どこで、誰に、何によって悪意に見舞われるのか、てんで予想がつかない。努力で築き上げたものも一瞬で崩れてしまうことだってある。そんな世界なんだから更生することも無意味で馬鹿らしく思える。

 シャバは何でもかんでも自分で決めなきゃいけないのも面倒だ。ムショはみんな同じ時間に起きて、食べて、働いて、センズリこいて、寝る。刑が長いとか短いとか、罪が重いだの軽いだの、細かい違いはあるが、しょせんはチョーエキ同士。お互い引け目を感じることも隠し立てする必要もない。制限された環境下での、限定された自由、楽しみ、苦しみ。そんな中にいる方が、俺にはむしろ、ありがたい。

 不意にくしゃみを連発し、意識がぼんやりとした。どこかで暖を取らないともうダメかもしれない。

 陸橋を下りたところに放置されているらしい自動車があった。試しにドアの取っ手に手をかけると施錠されていなかった。中は古い機材やコードの入った段ボール箱で埋まっていたが、無理をすれば何とか一人分が眠れるだけのスペースはある。ひび割れたフロントガラスには田畑が広がっていて、その向こうには倉庫や全国チェーンのスーパーの看板の赤々とした灯りが見えた。


 目を開けると、明けきらない青黒い空が広がっていた。体は死後硬直のように冷えている。この酷寒の中だから眠りながら死んでいてもおかしくはなかったのに、なんとか持ち堪えたらしい。

 動物の小便みたいな臭いのする不法投棄まみれの車内から脱け出る。全身を伸ばせない不自然な姿勢で寝たせいか、節々に重い痛みのしかかってくる。車の前でストレッチをしている間、腹が何度も大きく鳴った。凍死しかねない夜を越えた安心感からか、忘れていたはずの食欲が蘇ってきたらしい。

 国道沿いのコンビニで梅干しのおにぎりと熱い緑茶のペットボトルを一個買い、近くの公園のベンチでたいらげる。生きている実感が湧いた。一個では足りなかったが何も入れないよりはずっといい。

 ベンチでぼんやりしていると、右斜め前に猫がいるのに気が付いた。くすんだ灰色のソレは野生に染まっているらしく、生意気そうな鋭い眼つきをしている。

 ――なんだこいつ。俺を睨んでやがるのか。ネコごときが、何様だ――

 蹴りを食らわせようと近づくと、猫は向こうのフェンスの下を一目散に潜って逃げていった。チクショウ。

 何もしない相手だったら俺だって何もしない。だが何かしてきた相手には、お返ししてやらないと気が収まらない。

 休憩するのにちょうどいいと思い、昨夜遠くに見えたスーパーの中に入った。平日の午前とあってか、店内は客もまばらで、子供を連れた主婦や老人ばかりだった。フロアをうろついて、体を広げて休めそうな場所を見つけた。フロアマットで四囲を覆ったキッズスペース。開店直後なのでまだ先客はいない。ここに着くまでにも相当歩いた。倒れるように腰を下ろし、目を閉じた。


「おじちゃん、クチャイ」

 目を開けると目の前に大きな黒目があった――ガキだった。それも幼稚園も上がっていないようなチビ。

 また眠っちまってたらしい。体を起こそうとすると、ガキの母親らしい三十前半くらいの女が小走りで来て、コラ、近づいちゃダメ、と言ってガキを抱いて去っていった。背中を向けていた女は途中、汚物を見るような目で俺を一瞥してきた――なんだあの目は。

 ――どいつもこいつも、バカにしやがって――

 全身の血が脈打ってきた。

 分かっている。パンピーどもからすれば、俺なんか汚くて臭くて怪しい不審者そのものなんだろう。だが、それが分かっていても、あんな風に侮蔑の眼を向けられると腹が立つ。犯罪者と一般人とはいえ、所詮は人間と人間。どんな人生を歩んでこようが同じ脆くか弱い生き物。殺すも、殺されるも、すべて、運次第。

 どのみち終わってる人生。今の時点でもムショ行きは確定しているし、無期になろうが死刑になろうが構わない。プラスがゼロやマイナスに下がるのはショックだろう。だが一旦マイナスになったら、それ以上にマイナス値が下がっても平気になってくる。むしろ堕ちるまで堕ちてやろうという、開き直りの気持ちさえ湧いてくる。パンピーどもには分かんないことだがな。

 同じフロアのキッチン売り場に行き、ラックから一番切っ先の鋭い柳葉包丁のケースを取る。パッケージを開け、包丁の柄を握ると、俺の手と同じように冷たい感触が伝わった。

 遠くに視線を向けると、幸い、ババアとガキはまだいた。

 ケースを床に落とし、二人に向かってゆく。

 もう何も怖くはなかった。(了)

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冬亡者 士ノ流人 @Toya_Oguchi

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