第2話 変わり始める日常(1)

 なんでもない立夏の中頃。最近では、その名の通りに夏の始まりを感じられる季節だ。


 教室の扉を開けて自分の持ち場に向かう。学友たちに挨拶を済ませ座る。外から吹き込む風を一身に堪能できることは、窓側の特権だ。


 いまだに空調を渋る頭の固い、冷えた職員室にいるやつらに、今はもう気温も時代もあんたらのころとは違うんだと耳元で怒鳴りたくなる。


 GWが明けて暫く経ち、休み明けの浮ついた気持ちの生徒はすっかりいなくなったが、自分だけは先々週の夢のような出来事から目を覚まさずにいる。鞄から教材を出しながら、ちらりと隣の列のやや前方を盗み見る。


 艶やかな黒髪が風に揺れる。彼女の周りだけは時間軸が違い、一挙手一投足、あらゆる動作が意味のあるように感じる。そう思っているのは俺だけではないようで。


 そんな状況を、当の本人は気にも止めず、推理小説の世界に入り込んでいる。まるでそれ以上に惹かれるものなど、この空間にはないと言わんばかりに。


 入学直後は、嵐のようにやまぬ告白ラッシュであったが、その全てがことごとく切り捨てられ、高校二年生となった今では落ち着いているらしい。それでも、定期的に呼び出されているのは流石というべきか。


「おはよう、けい

「……! よ、よう、湊馬そうま!」


 色素の薄い亜麻色の髪に目元にある泣きぼくろ。皆の中で夏服への需要が高まる中、涼しい顔でベストを着る青年に上から声を掛けられ、はっとする。


 一緒にいるこっちの身にもなってほしいと思うぐらい面の良いこの男は、中学からの親友である浦風湊馬うらかぜそうま


「今日もお熱い視線を九重寺さんに向けてましたね」

「う、うっせーな……」

「そんなになるぐらいなら、彼氏なんだし、話しかければいいのに」

「いいんだよ、どうせバイト先で会えるし」


 もちろん、強がりだ。本当は、そんな叙述トリックにまみれた世界がつまらなくなるぐらいの話をして引っ張り出したい。


 しかし、九重寺曰く、俺たちの関係がバレないようにしたいらしい。なんでも、カルトじみた彼女のファンが俺に危害を加えるのが不安で仕方ないらしい。


 そんなこと言われた日には嫌だと言えるわけもなく、寧ろ、こちらに気を使わせてしまって申し訳ないまである。


「バイト先まで待つのかい?」

「ああ……」

「…………」

「な、なんだよ……?」

「2人で登校とかしないの?」

「してない」

「デートは週何回?」

「うーん、デート、って銘打ったことはとりわけしてないかも」

「……連絡の頻度は?」

「俺、スマホ持ってない」

「君たち本当に付き合ってるの?」

「た、確かに……」


 親友の会心の一撃。基本的にほとんどの放課後は、バイト先の喫茶店の常連である彼女と会うことになるので、少なくとも毎日会ってはいる。


 しかし、それは付き合う前から変わらないことであり、側から見れば、何も変化していないこの状況は奇妙であるに違いない。


 いかんせん恋愛経験に乏しい俺は、そこらへんをよく考えず、彼女と話せるだけで満足していた節があったかもしれない。


 ど、どうしよう、愛想尽かされたら……。付き合う前と後で何も変わらないし、お友達に戻りましょう、とか言われたら……。


 激しく吹き込む春風にあおられて、俺の心がざわめきを上げ始める。先ほどの心地よさなど、とうに忘れて、ただ背中に嫌な汗だけが残る。すると――


 ――カシャ、カシャ。


「や、やめろよ……」

「こんな、しおらしい顔をする圭は九重寺さん関連でしか見れないしね」


 いけ好かない笑みで俺のことをスマホで撮る湊馬。こいつ、人が真剣に悩んでいるときにおちょくりやがって……!


 どう仕返ししてやろうかと、怒りに震えていると、ふと気になっていたことを思い出す。


「そういえばお前、何で高校になってから写真撮るのハマってんの? そんなキャラじゃなかっただろ?」

「え!? あー、えーと……」


 歯切れの悪い湊馬を訝しむ。何をこんなに焦ってるんだ? 聞いた俺が今更言うのもなんだが、ただ趣味として始めたでいいだろうに……


「……け、圭くんコレクションをと!」

「……あー、まあ、その、なんだ……ごめんなさい」

「違う違う、違うからな!? 絶対誤解してるよな!? こ、これは不可抗力なんだ!」

「不可抗力?」

「あ……ま、まあどうでもいいじゃないかそんなこと!」

「いや、コレクションはちょっと……」

「冗談だよ! 冗談! 本当はアルバム作りを始めただけだ! ほら!? 学生時代の思い出ってやつさ!」

「そ、そうか……最初っからそう言っとけよ……」


 妙にでかい声で弁明をする友人を不思議に思いながらも、先ほどの問題について考える。これは今すぐ対処が必要だ。彼女に振られるなんて日が来たら……考えるだけで体が芯から冷えていく感覚がする。


「"重い男は嫌われる"と言っても、流石に何もしなさすぎだよ……」

「……はい、ごもっともです」


 いつの間にか冷静さを取り戻した親友に呆れられる。イケメンで、おそらく、ではあるが女性経験が豊富そうな湊馬のアドバイスは聞いといたほうがいいという結論に至ったのはとうの昔。


 実際、九重寺と仲良くなるために、何度コイツに相談をしたか……そしてそれが何回功を奏したか……。


 一応、感謝してもしきれない恩人であることを手遅れながら思い出し、なけなしのバイト代を使って、何か奢ろうと思った。


(……とりあえず、放課後、彼女と話してみるか)


 そんな決意を胸に、どうやってこの話を切り出そうかということに脳のリソースを使い込んだ結果、放課後までに覚えていたのは、珍しくガラの悪い連中が登校してきたことぐらいだった。


 ***


 下校時刻となったや否や早々に帰宅する彼女を尻目に、十七時からのバイトまで課題に取り組み、時間を潰す。


 いい感じの頃合いになったところで学校を出る。バイト先までは電車で三駅ほど。家と学校のちょうど間あたりにある。


 授業中に考えていたプランを反芻しているうちにあっという間に着いた、年季の入った建物の一階。これでもかというぐらい重い扉を開ける。


「お疲れ様です。軽見くん」


 俺に気がつき、わざわざ読書の手を止め、入口までやってくる。その道中でほんの少し崩れた前髪を照れながら直す彼女に、唯一覚えていたことすらも吹き飛んでしまった。

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