第3話 変わり始める日常(2)

 シーリングファンが室内に充満したコーヒーの香りを巻き上げる。マスターのカップを拭く音と店内BGMが小気味良いリズムを奏でている。


「ここ、計算ミスですね」

「あ、まじか」

「らしくないですね」


 喫茶店は、居酒屋みたいに回転率が高いわけではない。今みたいに、客の注文が一段落し、提供が終われば、暇な時間も結構ある。


 時間の有効活動ってことで、マスターのご厚意で、合間に勉強をさせていただいている。目の前に座る彼の孫、九重寺くじゅうじ沙月さつきと一緒に。


「…………」

「どうしたんですか? ぼーっとして」

「い、いや、九重寺とも仲良くなったなと……」


 初めて会ったのは、入学直後。湊馬に紹介してもらったこのバイトを始めた時、ちょうどこの日当たりの良い席に座る彼女と出会った。


 彼女は目に入れても痛くない孫の特権を振りかざし、毎日ここで暇を潰してたらしい。詰められるだけ詰め込まれたシフトは、必然的に俺と彼女の交流を作った。彼女との時間は居心地が良く、気がつけば――


「――くん。かーるーみーくーん」

「あ、ごめん、ごめん」

「まったく、今日はどうしたんですか? あまりにも集中できてないですよ」

「……そ、その、色々あってな」

「色々ってなんですか?」

「……色々は、色々だ」


 昼間に発覚した問題を切り出せず、適当に誤魔化す。交際をする上でお互いの意見を交換することは、もちろん重要だろう。しかし、余計な思考がブレーキをかけてくる。「彼女に重いと思われたくない」という何とも情けない思考が。


 聞くところまではいい。問題はその後で、どうして突然そんな質問したのかという疑問が生じる可能性がある。こちらとしては普通に交際していたのに急にヘラったように映るのだけは勘弁だ。


 なら、言うしかないのかもしれない。恋人らしいことをしたい、小っ恥ずかしいことを。


 今まで生きていて、こんな弱気になることなんてなかったのに、恋という名の病気に対抗するための免疫は、残念ながら持ち合わせていない。そんなことを考えていると――


「――どうして誤魔化すんですか?」


 にこやかに、しかし確実に苛立ちが見て取れる。まずい。この一年で、彼女について学んだことがある。それは、彼女を決して怒らせてはいけないということ。


 彼女の逆鱗に触れることは多くないが、多くないだけで別に触れることもある。酷かった時は一週間も口をきいてくれなかった。


 あわあわと俺が焦っていると、はあ、とため息をついて、先ほどとは打って変わって、悲しそうな声色で呟く。


「私たち恋人なんですから、秘密はナシ……ですよ?」


 度の入った眼鏡でも隠しきれない大きな瞳に呑まれる。こんな風に言われて誰が隠し切れようか。恐る恐るといった様子で口を開く。


「……九重寺は、その、俺と付き合っている上で不満とか――」

「ありません」

「あ、はい」


 表情を一切変えず、食い気味に返答が来る。あまりの即答ぶりが気持ちいい。やや拍子抜けした気持ちになっていると恐れていた質問が来た。


「どうして急にそんなことを?」


 予想通りの返しに一瞬動揺する。しかし、先ほどの彼女の態度に少し安心を覚えた俺は、観念して口を割る。


「提案があるんだが……明日から一緒に登校しな――」

「します」

「あ、はい」


 こんな長い時間悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなる。あまりにあっけない顛末に肩の力が抜ける。


「それだけですか?」

「あ、はい、それだけです」


 すると途端に彼女はクスリと笑い、イタズラっぽい笑みを浮かべて言った。


「可愛いですね」

「なっ!?」


 もう知らないと言わんばかりに机に突っ伏す。この後、いじけた俺をさらに揶揄う彼女に不満を抱きながらも、楽しそうならそれでいいかと次第に思い始めた自分に気がつき、苦笑いしたくなった。


 ***


 部活が終わり、一度家に帰ってからわざわざ外に出る。本来ならば惰性を貪りたいが、アレの呼び出しを無視した日には、末代まで呪われそうなので渋々向かう。


 いつもの意味のわからない場所にある裏路地に着く。その後すぐに、彼女と思わしき人物が到着した。


 黒いキャップに黒いパーカー、おまけに黒マスク。おめでとう、どっからどう見ても不審者だ。


 本人は変装しているつもりなのだろうが、もはや一周回って怪しいだろと思う。しかし、このお姫様の機嫌を損ねたくないので、口を閉じた。


「こんばんは、九重寺さん」

「…………」

「流石に無視は酷くない?」

「ほら、早く」


 そう言われてここ1ヶ月分のデータが入ったUSBを手渡す。丁寧に両手で受け取り、我が子のように慎重に扱う彼女。


「これなんで手渡しなの?」

「お互いに手渡しが1番安全でしょう?」

「それは僕も同意見だ」


 こんな犯罪まがいのこと、他人を経由してバレたら笑えない。改めて、この契約を早く履行して、僕も早く彼女との関係を断つべきだ。できれば、九重寺とかいう名の人のツラを被った悪魔の目の届かない場所で生きたい。


「……軽見くんの件ありがとうございます」

「ああ、それね、ほんとしっかりしてくれよ……」

「軽見くんは天然さんですから、きっと私と一緒にいるだけで満足してたんでしょう。そんなとこが可愛いんですけど」

「バカップルが……」

「……なんですか?」

「い、いえ、なんでもないです!」


 しまった、つい日頃の鬱憤から悪態をついて反抗したくなってしまった。慌てて取り繕う。


「そうですか、では」


 興味を無くし、用件が終わればおさらばだと言わんばかりの態度に思わず苦笑いをしてしまう。


 夜の闇に紛れ見えなくなった彼女を見送ったあと、とんだ女神様に気に入られてしまった、いたいけな友人を想い、気の毒になる。


「圭、すまん。骨は拾ってやるから……」

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