令和版・浦島太郎

パンチでランチ

第一章 海の底でしか、生きられなかった男

 十月の海風は、思っていたより冷たかった。

 浦島太郎――三十五歳。つい昨日、勤めていた会社からリストラを告げられた。


 「君の真面目さは評価してる。でも、もうこの会社に“君の席”はないんだ」


 部長の声は、波打ち際のようにやさしく、それでいて容赦がなかった。

 十五年。必死で働いた十五年が、たった一枚の退職届で終わった。

 スマホの電源は切れたまま。連絡を取る相手も、もういない。

 アパートの部屋には、段ボールが三つと、冷めたカップ麺の容器。

 明日が来ても、もう何も変わらない。


 ――終わらせよう。


 そう思って、夜明け前の海へ来た。

 潮の香りと、遠くで響く貨物船のエンジン音。

 死ぬには、悪くない場所だと思った。


 靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくり、冷たい波に足を入れる。

 まるで自分が海に吸い込まれていくようだった。

 そのときだった。


 「――おじさん、なにしてるの?」


 振り返ると、砂浜の上に、小さな女の子が立っていた。

 白いワンピースに、潮風で乱れた黒髪。

 年の頃は、七歳か八歳。

 目が、海みたいに深い青をしていた。


 「……君、こんな時間に、どうして」

 「カメさん、助けてくれたから。お礼を言いにきたんだよ」


 「カメ?」

 浦島は首を傾げた。

 少女の足元には、小さなウミガメがいた。甲羅には薄いヒビが入っていて、今にも動けなくなりそうだ。


 少女は、しゃがみ込んで亀を抱きかかえ、言った。


 「おじさんが、助けてくれたんでしょ? 昨日の夕方。海で網に引っかかってたカメ」


 ――そういえば。

 昨日、帰り道で見た。海辺で必死に暴れる小さなカメ。

 なぜか助けずにはいられなかった。

 あの時の。


 浦島は小さく頷いた。

 「そうか……あれ、君が見てたのか」


 少女は笑った。

 その笑顔は、どこか人間離れしていた。

 「じゃあ、今度は私が助ける番だね」


 彼女が差し出した手を取った瞬間、

 視界が青く染まった。

 海が光り、波が逆流するように空へと舞い上がる。

 浦島の身体は、水に溶けるように沈んでいった。


 そして――気づけば、そこは。


 深海にきらめくガラスの宮殿。

 音もない世界で、彼の鼓動だけがゆっくりと響いていた。


 「ようこそ、“竜宮(りゅうぐう)”へ」

 少女は微笑む。

 その瞳の奥で、クラゲが淡く光っていた。

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