聖書知ってる? ③ 神の目線とユーモア感覚  V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 第0話 神の目線があるからユーモアが生まれる

 キリスト教という宗教(組織)についてではなく「読書としての聖書」。


  新訳聖書に慣れ親しんだ人(必ずしもキリスト教徒というわけではない)には、ユーモアのセンスがある。

  人間社会を神の立場・目線から観る。そんな神の感覚・神の目線を無意識のうちに習慣としているから、ユーモア感覚が生まれるのです。


  熱心なキリスト教徒(聖書を読み込んでいた)であったヒッチコック(イギリス生れの映画監督。サスペンス映画の巨匠。(1899~1980))の作品には、そこに描かれた不安・恐怖・緊張感の中に、ちょっとした会話のような形でユーモアが挿入されている作品が多い。監督である彼が、映画の中に一瞬だけ通行人のような形で登場するというのも、その一つです。


《同じく神を信奉するというか、大自然信仰によって神と一体化してきた縄文人にも「ユーモア」はありますが、それは聖書やコーランという一神教の人たちとは異なるものです。》


第1話 米国映画で知ったユーモア感覚


  私が小学校高学年から中学にかけて、初めは日曜映画劇場、次に土曜映画劇場、水曜ロードショー、木曜映画劇場と、一時は昼間の再放送も含め毎日洋画を見ることができました。9割が米国、あとはイタリアやフランス映画。

  映画館でも、私の大学生時代の頃・1970年代)で、(大人)300円~500円で3本立て、500円でオールナイト5本立てが観れた時代でした。映画雑誌も2つあり、その誌面のほとんどが洋画(米映画)でした。

  今から考えると、ものカネばかりで、何をやってもがさつ(言動が粗暴で、ぞんざいなさま)なアメリカ文化に学ぶことなどなかったのですが、唯一良かったのは、彼らのユーモア感覚を知ったことでした。

  「お楽しみはこれからだ」和田誠 という本は、私が社会人になってから読んだ本でしたが、小中高校時代に観た数々の米映画を思い出させてくれました。ストーリーやセリフ以上に、そこ(底)に流れる彼らアメリカ人のユーモア感覚です。

第2話 ユーモアとは


  単に面白おかしいのがユーモアとは限らない。

  ユーモアとは、苦しみや悲しみ、恐怖や怒りといった切羽詰まった極限の状況から、まるでそれを緩和するかのようにして生まれるものでもあります。

  ユーモアとは心のゆとりが無いと生まれないのですが、その心のゆとりが神の目線ということ。つまり、自分(たち)が今いる状況をずっと高い所から、或いは全く異なる次元から眺める(俯瞰する)ことで、現状の(切羽詰まった・苦しい・不安な)状況を、じっくり見直すことができる。心のゆとりが生み出されるのです。


<平栗流4つのユーモア分類>


① 神の目線によるユーモア

② そのユーモアに「意地悪感覚」で味付けしたブラックユーモア

③ 神の言葉を字面だけで受け止めると、冗談に取れてしまう「ユーモア」

※ ユーモアと冗談はちがう。


ユーモアhumour

上品な洒落(しゃれ)やおかしみ。諧謔(かいぎゃく)。「―のあふれる講演」

冗談

①むだばなし。むだぐち。狂言、鞍馬参「―なこと、かしましういふまい」

②ふざけて言う話。梅暦「―だよ」。二葉亭四迷、浮雲「お勢が戯談(じょうだん)に托辞(かこつ)けてそれとなく文三の肚(はら)を探る筈もなし」。「―を言って笑わせる」

③冗談事(じょうだんごと)の略。「―にもほどがある」広辞苑


 <縄文人のユーモア感覚>


○ 寺沢武一「コブラ」という漫画にもユーモア感覚が溢れていますが、この方も新約聖書に親しんでいらっしゃるのか、それとも天性の縄文人感覚由来なのか。

○ 阿刀田高という小説家の作品にも、ユーモアとウィットが溢れているというか、このかたは「ユーモア×ウィット=?」「ブラックユーモア入門」なんていうベストセラーになった本も書かれています。

○ 星新一(1926~1997)、筒井康隆といった小説家の作品もまた、縄文人的ユーモア感覚と言えるでしょう。


 <韓国人(弥生人)のユーモア感覚>


④ ユーモアではなく嘲笑(ちょうしょう)・嗤笑(ししょう)

  神の目線からではなく、困った人・不幸な人・劣った人を見下し嘲(あざけ)り嗤(わら)うのが、韓国人のユーモア(擬き)。


  「韓国人(弥生人)のユーモア」とは、身体障害者のマネをして、それを見て嗤う。それを芸にする芸人がいるくらい、だそうですが、「神の目線のユーモア」とは異なる、嘲笑(ちょうしょう)・嗤笑(ししょう)文化と言えるでしょう。


新版 朝鮮カルタ 単行本(韓国のことわざ)牛辺さとし (著)から

<引用始め>

「障がい者に立派な部分は一つもない」

⇒ 障がい者は体だけでなく、心もおかしくなっている。韓国の伝統芸能に「病身舞」がある。障がい者の動作をおかしく踊り、それを笑う。2010年に孔玉振は長年の病身舞の功績をたたえられ、韓国の無形文化財になった。


韓国の諺の一部

・他人の家の火事見物をしない君子はいない

⇒誠実で聡明な人でも他人の不幸を喜ばずにはいられない。

・他人の牛が逃げ走るのは見ものだ

⇒自分と利害関係のない出来事は不幸なことでも愉快で見ものだ。

・人が死んだところで踊りを踊る

⇒悲しみにくれる人の前で、人間味のないことをする。傷口に塩を塗る、の意味合い。

・溺れている犬(人)がいたら棒で叩け

⇒傷口に塩を塗る、の意味合い。

 <引用終わり>


第3話 超真面目な真理とユーモアは紙一重

<新約聖書に見る、冗談にも取れるユーモア>


  イエス・キリストを通じて述べられた神の真摯な言(ことば)ですが、文脈から切り取ってそれだけを見ると、冗談にも受け取れる。

  あまりに生真面目で謹厳実直な人を見ると、その人に比べてずぼら(だらしがない)でいい加減な自分としては、逆に可笑しくなってしまう、ということがあります。

  これもまた、ユーモア感覚の延長にあると言えるかもしれません。


① 一見すると「エッ、なに・冗談?」と取れる言葉

② しかし、よく考えれば「良いことを指摘している」

③ さらにこれを知性の力で加工するとユーモアになる

  これが第3のユーモアであり、昔から新約聖書を読み込んできた欧米人は、聖書の真摯な言葉を、心の中で牛のように反芻して超真面目な話を反転させるまで消化する、ということを行うことで、神の目線(ユーモア)のセンスが身についたのでしょう。


  そんなキリスト教徒ですが、残念ながら、その神の目線が韓国人のように尊大・傲慢という心に転化すると、植民地主義・侵略主義になってしまう。

  また、21世紀の現在、キリスト教徒というか新約聖書を個人的にじっくり読んで哲学する人が少なくなってきているので、世の中にユーモアやウィット感覚が薄れ、世界中がギクシャクしてきているのかもしれません。



<マタイの福音書から引用>

11:18ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、11:19人の子(イエス・キリスト)がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。


5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。


6:19あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

6:20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。


6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

*********************

続く


2025年10月10日(金)

V.1.1

平栗雅人

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