第2話 誰もいない暗い世界で



『はぁ、はぁ……!』



 ……国を追放され、家族の縁を切られ……行き場を失った母親ジューリスは、ただ一人自分に着いてきてくれた使用人と共に、小さな集落になんとかたどり着いた。

 その間も彼女は信じていた。自分は妊娠などしていない。これはなにかの間違い……きっと家族も国のみんなも、わかってくれる。


 ……いや、信じたかった。



『きっとこれは夢……悪い夢……』



 そんなことを思い、信じ続けた日々……それは同時に、彼女を蝕む時間でもあった。

 自分の中に、自分の知らない命が宿っている。それを喜べるほど、彼女は楽観的ではなかった。


 貴族として、いや人として。未知の恐怖に、震えていた。



『おぎゃー、おぎゃー!』



 そしてこの日……彼女が抱いていた淡い期待は、裏切られた。

 本来であれば喜ぶべき新たな生命の誕生は、彼女にとっては絶望のどん底に突き落とすも等しい存在だった。


「こんなものさえ、いなければ……!」


「奥様!」


 ……赤子は母親の記憶を、見た。なるほど、自分にまったく身に覚えがないのに妊娠した。それは気味が悪い。

 しかも、自分は無実を訴えても周りには信じてもらえなかったのだ。


 挙句自分でもなにがなんだかわからなくなり、精神を蝕まれた。そして産まれたのは、妊娠した覚えのない気味の悪い子供。


「おぎゃああああ!」


「うるさぁああい!!」


 記憶を垣間見た赤子は、その壮絶な人生に泣き出す。

 それが母親の心をかき乱し、理性を本能がかき消していく。


 家を出て、力の限り走った母親は……たどり着いた崖先で、立ち止まった。

 妊娠直後の女性がこんなにも走れるのか……などと場違いな感想は、次の瞬間にはもう消えていた。


 なぜなら……赤子の身体は、宙に浮いていたのだから。


「奥様、お待ちに……!」


 追いかけてきた使用人の声は、無情にも遅すぎて。

 母親の形相は、とても母が子に向けるものではなかった。最後に見た母親の顔は……青白く痩せこけていた。彼女は、精神を病んでいた。


 殺される……前世の人生を思っても、人にこれほどに殺意を向けられたことはない。

 ……それは、一瞬の出来事だった。


 宙に浮いた赤子は……投げ飛ばされていた。母親は、我が子を谷底へと投げ落としたのだ。

 そこにあるのは……魔物が住まうと言われている、いわば"魔物の巣窟"だった。


「あー!」


 崖下に放り落とされた赤子は、叫び声を上げることすらままならず……それでも力の限り声を上げ、落下していった。


 前世の記憶があっても、母親の過去を知っても……この身体ではなにもできない。知識があっても肉体がまったく動かないのだ。

 いや、動いたところでこの短い手足。じたばた暴れたところで、なにができる。


 このまま地面に激突すれば、間違いなく死ぬ。大人だって死んでしまうほどの高さだ、この身体では絶対に助からない。


「あ、あぅう……!」


 いやだ……と。赤子は、頭の中に思い浮かべた。

 前世であっけなく死んで、この世界に生まれたというのに。生まれた瞬間に、殺されるのか?

 名前すらもらえずに、死んでしまうのか?


 死にたくない、死にたくない……そう願い、懇願した。目をぎゅっと閉じて、ただただ願いを捧げる。

 そして、地面があっという間に近づいて……


 ……ふわっ、と。身体が浮いたのだ。


「! ……あー?」


 地面に衝突するその直前……ふわふわと身体が浮いていたのだ。目を開け、確認する。

 それはまるで、風に包まれているかのようだった。


 困惑する赤子であったが、その身体はゆっくりと地面へと降りる。横たわり無事に着地したが、硬い地面だ。柔らかい布に包まれていたい。


「あ、あぅ……」


 投げ落とされる直前、赤子は母親の記憶を見た。


 あんな過去があっては、精神を病んでしまってもおかしくはない。そう理解はできる。

 自分に置き換えてみたって、そういう経験がないのに妊娠したとなったら……気味が悪くなるだろう。


 妊娠なんて夢だと思うだろう。産んだ子供を呪いたくもなるかもしれない。しかし……納得はできないのもまた、事実だ。

 少なくとも、こんな谷底に落とされた身としては。


「だー」


 ひとりでに妊娠した……それは、この世界に転生した彼女の命が、偶然あの母親の身に宿ったということだろう。


 とりあえず命の危機が去った赤子は、自身の知っている知識を思い浮かべる。

 数ある転生もので、赤子として転生した場合転生先の元の人格はどうなるんだ……と考えたことはあった。


 それが、どうだ。転生という事態が自分の身に起こったのはまだいいとして……無から無理やり新しい命が作り出されるなんて。予想もしなかった。


「うー」


 つまり、母親が両親や周りから心ない言葉を浴びせられ、後ろ指をさされ、国を追い出されたのは……自分のせい、ということになるのか?

 いや、この世界に転生したのは自分の意思じゃない。まして誰かのお腹の中にピンポイントに、なんて狙えるはずもない。


 赤子はとりあえず、考えるのを放棄した。

 いくら恨み言を連ねても仕方ない。声にはならないし、なったところで誰にも聞いてもらえない。


 ……そう、ここには誰もいないのだ。見上げても、高い高い……落とされてきた場所は、遥か上空だ。

 よくもあそこから落とされて無事だったと、我ながら感心するくらいには。

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