第2話
◆第二章 金の卵たち
それから一週間、白川陽平は毎日のように「マルヨシ洋装」に顔を出した。
客でも注文でもなく、ただ加藤の背中を見に来る。
「この前の“田の字”の兄ちゃん、見つけたで」
「ほんまですか」
「うちの駐車場の集金をしとる。安物の時計、黄ばんだシャツ。間違いない」
その日、白川はその男を店に連れてきた。
シャツは黄ばんで、靴底は割れている。昼間っから立ち飲み屋の匂いをまとった、見るからに冴えないサラリーマン――
加藤は一週間前の“500億”を思い出す。
「この前はどうも」
男は照れたように笑った。「あ、先日は……ほんま助かりました」
「紹介するわ。田村涼。灯台下暗し、うちのシマのもんや」
白川が笑いながら言った瞬間、加藤の視界に“500億”がふたたび炎のように燃え上がる。
――やっぱり、この人や。
「田村さん、そのスーツ、少し肩が落ちてます。詰め直しますわ。お代は前と一緒、次で結構です」
「すんません……。オレ、金ないくせに、息子がスーツ姿のパパ、カッコイイっていうもんだから、つい」
白川がニヤリと笑う。
「金はあとからついてくる。なぁ、翔太」
加藤は、自分の心の高鳴りをやっと確信した。
そこから話は転がるのが早かった。
田村がぼそりと口にした。「親父が死んで、田舎の土地、相続することになって……売るか迷てるんです」
白川はポケットからタバコを出し、地図を覗き込み、笑い飛ばした。
「おい翔太。ここ、国が新幹線の車両基地作る予定地やぞ」
「……え?」
「この土地、もうすぐ跳ね上がる。十倍どころやない。百倍や」
加藤の目には、田村の数字がさらに膨れ上がっていくのが見えた。
500億の輪郭が、炎のようにゆらいでいた。
「田村。売るのは簡単や。でもな、それじゃ小銭や」
白川の声は甘い毒やった。
「お前、自分で会社作れ。不動産の。ワシが金貸したる。翔太も顧問や」
「え、俺が……?」
「お前の“目”で次の土地を探すんや。金の匂い嗅ぎ分ける目ぇ持っとるやろ」
加藤は答えなかった。
だが、その夜、白川から渡された茶封筒に、札束がぎっしり詰まっていた。
「これは……」
「前金や。次の神様を見つけろ」
---
そこからの半年、三人の運命は加速した。
田村の「株式会社リョウ不動産」は、最初の売買で3億の利益を上げる。
田舎の更地を買っては、行政情報を先回りして高値で転売。
白川が政治家や役人に金を流し、加藤が“数字の高い地主”を見つけては交渉した。
うまくいきすぎていた。
「翔太、次はどや? この辺」
加藤は地図を見て、ある一点を指差す。
「この地区、まだ安いですけど……現地見てきました。住民の頭の上の数字、みんな高いですね。五億、十億、百億……」
「決まりやな」白川が笑う。
「国が次に手ぇ出すんはそこや。お前の目とワシのコネ、無敵や」
新聞には“地方都市の地価高騰”の文字が躍り、夜のミナミは金の匂いでむせ返っていた。
白川の組は裏で“地上げの帝王”と呼ばれ、田村は“奇跡の脱サラ”として経済誌に取り上げられる。
スーツ屋の加藤も、裏では「運命の仕立て屋」と囁かれ始めた。
---
だが、夏の終わり、加藤の“数字”に異変が起こり始めた。
頭上の数字が、微妙に揺らいで読めない。
人によっては、途中で“ゼロ”に変わる者も出てきた。
それはまるで、見えない死刑宣告のように。
「翔太、どうした?」
白川が問う。
加藤は黙っていた。
目の前の田村の数字が、今、500億から250億に半減している。炎の勢いが、半減したかのように。
理由は分からない。だが、何かが狂い始めていた。
---
その夜、ミナミの高級クラブで三人は乾杯した。
泡立つシャンパン、きらびやかなネオン、胸元を開けたホステスの笑い声。
金の匂いが空気を焼いていた。
「ようやったな、三人でここまで来たんや」白川がグラスを掲げる。
田村は顔を真っ赤にして笑った。
「俺、信じられへん。人生って、こんなに簡単なんやな!」
加藤は苦笑いした。
「簡単やないですよ。数字が、そう見せてるだけです」
白川が目を細める。
「数字、どうや? 田村のは、まだ500億か?」
加藤は目を伏せた。
「……さっきから、半分になったままです」
「ふん。なら倍にしてやればええ」
白川の笑みは、もう人間のものではなかった。
---
――その翌月、田村涼は倒れた。
自宅の風呂場で、心臓発作。まだ三十代後半だった。
駆けつけた加藤の目の前で、田村の頭の上の数字は、静かに消えた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「あの時、500億に目が眩んで彼を欲望の道へと引き摺り込んだ。スーツを勧めたのは、彼の人生を利用しようとしたから、そんなふうに仕立ててしまったからや…」
加藤は呟いた。
その言葉の意味が、ようやく胸に重く沈み始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます