一方通行の愛
佐々井 サイジ
男
俺はもうここまでなのか。
父と母が俺を取り囲んで情けなく泣いている。こんなときでも父はしっかりカツラを装着していた。最低でも十年は使用しているので分け目から器具がむき出しになっていて気味が悪い。
母は母で目の下のできたシミを覆い隠すために層ができるほど化粧をしている。
こんな両親の元に生まれてきたからにはどこかで釣り合いの取れる幸運が来るはずだと思い、二十九歳まで自宅に引きこもって待ち続けていた結果が末期の癌かよ。くだらない。
学校でいじめられていると言ったときも興味を持たずに一蹴したくせに、いざ俺が死ぬときはなぜドラマのように泣き叫ぶのか。俺はあんたらに対して感謝も恩義も抱いていない。お前らが邪魔で打出奈緒香が隠れて見えない。最期くらい見させてくれよ。
耳に水が入ったように声がくぐもっていて両親の声はあまり入ってこないのが不幸中の幸いだ。脈拍を示す機械音も両親の声を掻き消すには効果的だった。視力だってもうかすんでいるからはっきり見ずとも済む。でも奈緒香の姿だけははっきりと見たい。
人生で一度でいいからセックスしたかった。父が不倫相手に全裸写真を送らせているのを見たのが小五。それから病気になる二十九歳まで毎日三回はオナニーしていた。ずっとセックスすることだけが夢だった。
入院した今、頭に浮かぶ相手は打出奈緒香だけだった。奈緒香は他の看護師と違って、要領が良くて愛想も良い。彼女が担当だったときはそれだけで勃起した。
「きっとよくなりますからね」
奈緒香に言われたときだけ、もう一度意地でも癌を治してやるって思える。寛解して、奈緒香に告白するんだ。いや、その前にちゃんと働く。いや、中卒引きこもりじゃどこも雇ってくれない。高卒試験を取ろう。そして東大に行くんだ。奈緒香は異常に賢い医師たちを見ているから目は肥えているに違いない。東大くらいいかないと奈緒香と釣り合わない。東大を出たら一流商社に三年間勤めて起業する。年商百億まで成長させて一部上場だ。そうなると嫌でも女が寄って来る。しかしそんな下品な女どもには見向きもしない。真っ先に奈緒香の元へ駆けつけるんだ。そして告白が成功し、奈緒香と付き合う。一年間の交際の果てに高級ホテルの最上階でサプライズプロポーズ。奈緒香は鼻と口を隠すように両手を当て、頬には涙が伝うのだ。こうして死にかけだった俺が奇跡的に巨大企業の社長として活躍し、一人の女性を愛し続けたことがニュースになるんだ。
痛みが引いてきた。母の後ろで奈緒香が部屋を出て行こうとする。母が邪魔だ消えろ。俺には奈緒香にいてほしいんだ。奈緒香。奈緒香。大好きだ。愛してる。
「ああ」
言葉に出してみると、母親が顔を近づけてきて「え、何?」と言ってきた。うるさい臭い。お前に言ったんじゃない。
「ありがとうなんて言わないで。まだまだこれからじゃない」
「そうだぞ一誠。治ったらお前のやりたいこと全部させてやるから。だから頑張れ」
口々に両親が都合の良いことを言ってくる。うるさい。これまでやりたいことをさせてくれないばかりか、いじめが悪化しても無視して不登校になって引きこもる原因を作ったお前らがなぜ上から目線なのだ。
ああダメだ。もうまともに考えることすらできなくなってきた。白い霧が漂っている。それしか見えない。
奈緒香の声が微かに聞こえた。先生と何やら話しているが、くぐもっていて内容がわからない。両親が慌てだした。機械音が一定の音が鳴り続けている。
何だそう言うことか。奈緒香。奈緒香。俺は奈緒香だけそばにいてくれたらそれでいいんだ。奈緒香。
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