第5話「身分を隠した交流」

「さあ、どうぞ。火傷しないでくださいね」


 ログハウスの中に通されたカイウスは、エレオノーラから温かいハーブティーの入ったカップを受け取った。木の温もりが感じられる室内は、清潔で居心地がいい。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、穏やかな空気が流れていた。

 カイウスは捻挫した足首に手際よく薬草を塗られ、包帯を巻いてもらっていた。彼女の治療は驚くほど的確で、ジンジンとした痛みが和らいでいくのが分かる。


「……助かった。礼を言う」

「どういたしまして。困った時はお互い様ですわ」


 エレオノーラはにっこりと微笑む。その笑顔は、カイウスが今まで王宮で見てきた、どんな令嬢たちの計算された笑みとも違っていた。太陽のように明るく、純粋で、見る者の心を解きほぐす力がある。


『この女は、何者なんだ……』


 カイウスは警戒心を解かないまま、彼女を観察した。言葉遣いや所作は、紛れもなく高貴な身分を思わせる。しかし、彼女はこんな森の奥で、聖獣や精霊たちと自給自足の生活を送っている。そのアンバランスさが、彼の好奇心を掻き立てた。


「君は、一体……。なぜ、こんな場所に一人で?」

「私ですか? 私はエレオノーラ。色々あって、都会の喧騒から離れて、ここで静かに暮らしているんです」


 彼女はそう言って、悪戯っぽく片目をつぶった。自分の素性を隠しているのは明らかだが、深く追及するのも無粋だろう。カイウス自身も、身分を偽っているのだから。


「俺はカイ。薬草を探して旅をしている」


 咄嗟に考えた偽名を名乗る。エレオノーラは「カイさん、素敵なお名前ですね」と素直に微笑んだ。

 部屋の隅では、カーバンクルたちが丸くなって眠っている。時折、カイウスの方をちらりと見ては、すぐにエレオノーラに視線を戻す。完全に懐いてはいないが、敵意もなさそうだ。あの聖獣グリフォンは、家の外で番をしているのか、姿は見えない。


「このハーブティーは、あなたが?」

「ええ。この森で採れたものですわ。お口に合いましたか?」

「……ああ。美味い」


 素直な感想が口からこぼれた。心の底から温まるような、優しい味がする。カイウスは、自分がこんなにも穏やかな気持ちでいることに、内心驚いていた。

 王宮での彼は、常に気を張り詰め、誰にも心を開かなかった。「氷の王子」という異名は、彼自身が望んで作り上げた鎧だ。政敵だらけの環境で生き抜くためには、そうするしかなかった。

 しかし、この少女の前では、その鎧が自然と剥がれていくような気がした。


「カイさんは、どちらからいらしたの?」

「……西の方からだ」


 曖昧に答える。エレオノーラはそれ以上は聞かず、「遠くからお疲れ様です」と労わってくれた。その気遣いが、カイウスの心に心地よく響く。

 しばらく、暖炉の火を見つめながら、二人の間には穏やかな沈黙が流れた。普通なら気詰まりになるはずの沈黙が、不思議と苦にならない。


「あの……」


 先に口を開いたのは、エレオノーラだった。


「もし、よろしければ……足の怪我が治るまで、ここに滞在なさいませんか? 空いている部屋もありますし、食料なら十分にありますから」


 彼女の申し出は、カイウスにとって渡りに船だった。しかし、同時に戸惑いも感じる。初対面の男を、簡単に家に泊めるなど、あまりに無防備ではないか。


「……見ず知らずの男を信用するのか?」

「あなたは、悪い方には見えませんもの。私の動物たちも、あなたを警戒していないようですし」


 彼女はそう言って、カイウスの足元にすり寄ってきた一匹のカーバンクルを指さした。エメラルドの瞳を持つその子は、カイウスのブーツの匂いをくんくんと嗅いでいる。


「それに……一人で食事をするのは、少し寂しいですから」


 最後の一言は、本音なのだろう。少しだけ寂しそうに微笑む彼女の表情に、カイウスの胸が小さく痛んだ。

 彼女もまた、何かしらの事情を抱え、孤独の中にいるのかもしれない。


「……世話になる」


 カイウスが短く答えると、エレオノーラの表情がぱっと華やいだ。


「本当ですか! よかった。では、夕食の準備をしますね。今日は野菜たっぷりのシチューですわよ!」


 嬉しそうにキッチンへ向かう彼女の後ろ姿を、カイウスは黙って見つめていた。

 この森で、この少女と共に過ごす数日間。それは、氷の王子にとって、忘れられない時間となることだろう。彼の凍てついた心が、少しずつ溶け始めていくのを、まだカイウス自身は気づいていなかった。

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