ふたりぼっちの図書室 4
もうすぐ冬休みが始まる、そんな時期。
訓は瞳を翳らせて、俯きながら第一図書室のドアを開けた。
空気は教室よりもしんと冷えて、しかし過ごしやすいその部屋。カウンターの中にいた和花は、いつも通りに訓に笑いかける。
「いらっしゃい、訓くん」
「うん……」
頷いた訓の表情が曇っていることに、和花は気付いて首を傾げる。けれど彼は何も言わず、いつも通りテーブルにランドセルを置いて、本棚と本棚の間に滑り込むように入っていく。そのまま一冊の本を取り出してきて読み始めたものだから、和花は何も訊かず、自分もカウンターの中で読みかけの本を開いた。
和花はそのまま本の世界に没頭していったけれど、訓は違った。
開いたページの上を、視線が滑っていく。文字を拾っていくことはできるものの、内容はまるで頭に入ってこない。
カウンターの中の彼女をちらちらと伺いながら逡巡しているうちに、その表情も、本の中の文字も見えにくくなってきた。窓の外の空は、どんどん鮮やかなオレンジ色に染まり、下校時刻が刻々と近付いてくる。その色を睨んで、一つだけ深呼吸。訓は椅子から立ち上がると、和花の正面に立って声を掛けた。
「……和花ちゃん」
「ん、どうしたの? 貸出手続き?」
「……あの、さ。……和花ちゃんに、話したいことが、あって」
いつになく沈んだ彼の声に、和花は首を傾げながらも続きを促した。
「……どうしたの、何か、あった?」
その声が、微笑みが、あまりにも優しかったから。訓は顔を上げられなくなって……しばらく逡巡したのち、震える唇をそっと開いた。
「あの、さ。あの……ぼく、転校することに、なったんだ」
そっと落とされた言葉。和花の喉奥から、ひゅう、と微かな音が鳴る。その音を皮切りに、第一図書室はいつにも増して静まり返る。
先に沈黙を破ったのは、和花の方だった。
「……そっか。前にも言ってたもんね、もしかしたら、って」
唐突な声に、訓は弾かれたように顔を上げる。そして、ああ、と声なく呟いて顔を歪めた。
「……ごめん……」
「どうして謝るの? 寧ろ、ちゃんと教えてくれて嬉しい。それに、きみが今日まで、休みの日以外は本当に毎日、ここに来てくれたこともね」
うそ、嘘だ。嬉しいなんて、思ってたとしてもほんのちょっとだ。
だって本当なら、そんな顔、してるわけない。
口元の震えをどうにか抑え込んで、今にも零れそうな涙をどうにか堪えている。そんな顔を見たくはなかったのに、そうさせているのは自分で。
何も言えなくなった訓を見て、和花は「あ……」と声を漏らした。
「……ごめん、ちょっと嘘ついた。……毎日来てくれたことが嬉しいのは、本当なんだけど。本当にほんとうだけど……やっぱり、寂しいや」
「……うん」
「でも、さ。寂しいからって、どうすることもできないし。いかないでって言ったって、無理な話だし」
どれだけ寂しくても、嫌だと思っても。そう思っているだけでは、何を変えることもできない。和花はそれを、もう思い知っている。どれだけ寂しくても、司書の先生はいなくなった。どれだけいやでも、ここは書庫代わりの第一図書室になってしまった。だから。
「だから、せめて、笑って送り出したかったの。辛くないよって、大丈夫だよって言いたかったの」
口元はどうにか微笑んだ形のままにできたけれど。目尻に滲んでいた涙はとうとう溢れてしまう。和花はそれを慌てて拭った。
「大丈夫、だよ。寂しいけど、内緒でいなくならないでくれて嬉しい。そうだ、冬休みが始まるまではまだ何日かあるでしょ? その間は、ここに来られる?」
和花の問いに、今度は訓の方が泣きそうになる。顔を上げられないまま、「……ごめん……」と呟いた。
「実は、今日で最後なんだ。……冬休みが始まったら、すぐに引っ越しで。その準備をするから、明日からは、早く帰らなきゃいけなくて……」
「……そっか。……じゃあ、もうお別れなのかぁ」
下校時刻五分前。どこか遠く聞こえるチャイムの音に、擦れるような声が重なった。
「今まで、ありがとう。もう会えなくなっちゃうのは寂しいけど、どうか元気でいてね」
「……お別れじゃないよ。手紙を送る。メールでもいいよ。連絡を取り合ってさ、またきっと会おう。学校が変わるからって、友達じゃなくなるわけじゃないでしょう?」
訓の言葉に、和花がはっと顔を上げる。苦く笑うと、静かに首を横に振った。
「いいよ、そんなの。どうせ無理だもの。わたしのことなんて、忘れちゃっていい。ちゃんと家に帰って、元気に生きてくれれば、それでいいんだよ」
「……どうせ無理って、何それ。忘れないよ。初めてできた、大事な友達なんだから。忘れるわけない」
「忘れなくっても、無理だよ。手紙もメールも、できるわけない。できる理由が、どこにもないの。だから気にしないでよ」
その笑みはただ苦いだけで、憂いなど無いように見えた。やけにきっぱりとした口調で言い切った和花の様子に訓は唇を尖らせる。
「気にするよ。忘れないよ。手紙もメールも駄目なら、別の方法を考える。これっきりになんてしたくないし、絶対しない。だからそんな寂しいこと言わないでよ」
「別の方法なんてないよ。そりゃあ私も、これっきりなんて嫌だけど……嫌だからって理由だけで、どうにかなることなんてないもの」
その声からは感情がすこんと抜け落ちて、平坦。苦い笑みも次第に薄れていた。
「だから、もういいんだよ。……ほら、帰らなきゃ。もうすぐチャイムが鳴っちゃうから、急いで」
「よくない! 何にもよくないよ。きみだって、本当はそんなこと思ってないくせに。ずっと泣きそうになってるくせに! 何でそんなふうに、諦めたみたいなことばっかり言ってるの!?」
「だって、……だって、本当に無理なんだもの。諦めるしかないんだもの! ……諦めたくなんてないけど、そうしなくっちゃいけないんだよ。だから、ねえ、だからさ……」
薄れた笑みの陰から、本当の表情が現れる。溢れそうな涙を必死に堪えて、漏れそうな泣き声を噛み殺して、訓のことを睨みつけるみたいに見つめていた。
「だから、きみも、早く諦めてよ。早く諦めて、もう、帰って」
「やだ! 嫌だよ。絶対諦めない。きみが嫌がるんだったら、手紙もメールもしないけど……でも、これでお別れなんて絶対嫌だ! そんなことになるくらいなら、ずっとここにいる。怒られたって知るもんか、転校も引っ越しもしないで、ずっときみと一緒にいる!」
「……何を。……何、馬鹿なこと言ってるの! そんなの駄目! 帰って、もう帰ってよ。早く、ねえ、早く――まだ、帰れるうちに!」
その叫びを掻き消すように、チャイムが鳴り響く。
冷たい音。和花はその顔をさあっと青ざめさせて、慌ててカウンターから出る。そのまま訓の手を取った。
血の気が引いて冷たい、しかし生ぬるく汗が滲んでいる彼女の手が、強く訓の腕を引き、図書室の扉まで大股に迫る。彼女は握っていた訓の手を、そのまま扉の引手に触れさせた。
「ほら、早く開けて」
「な、何それ……。さっきから和花ちゃんの言ってること、訳わかんないよ」
「いいから、早く。……わたしじゃ、もう無理だから……」
それがどういう意味なのか、訓には分からない。とにかく、と急かされ、訓は渋々、扉を開けようとした。
――開けようとした、のだけれど。
「……何で……?」
その扉は、いつだって立て付けが異様に良くて、するりと開くのに。どうやら今は、そうではなかったらしい。
音の一つも立てないまま、その扉は動かない。いくら力を込めても、ぴくりともしない。釘付けにされたみたいに。戸板とレールが張り付けられてしまったみたいに。
「……なんで?」
同じことをもう一度呟いた小さな声は、ただただ不思議がるだけのもので。
「――ごめん、ね。訓くん」
対して後ろの和花が漏らした声は、何よりも苦く、しかし何よりも晴れやかだった。
「ごめんね。やっぱり、間に合わなかった」
「やっぱり……?」
「ごめんね、訓くん。でも、……でも、大丈夫だよ。もう辛いことも苦しいことも、悲しいことも寂しいことも、何にもないから。大丈夫、なんだよ」
彼女の囁きは、夕暮れの図書室に静かに満ちていく。少しだけ俯いた顔は、逆光のせいで暗く翳って窺えない。
「……何が起こってるのか、分かるの。……知ってるの?」
けれど、訓の問いを肯じたその口元は、確かに笑みの形をしていた。
「何が起こったか、だけなら。うん。……わたしに起こったことと、同じだから」
ほら、座って。
囁きながら、少女は手を伸べて少年を招いた。
ひとりぼっちのこどもたち 朽葉陽々 @Akiyo19Kuchiha31
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