第3話(2)「リバーブ」

「あれ?先輩。お疲れ様でーす。」 


聞き覚えのある呑気な高音で間に割って入る影。

「晶叶ー、探した探した。こんなとこにいたの?急がないと遅れるよ。」


隙間から手が伸びてきて晶叶の腕が強く引っ張られる。細い体はスルリと抜けた。


「走ろう。」


小さく言われて、やっと身体に力が入る。

晶叶とその影は、その場から全力疾走する。

晶叶は口から溢れる唾液をそのまま風に流した。頬に残った臭い湿りを手で拭った。

一緒に走ってくれている黒髪の刈り上げを、こんなに頼もしく思ったことはない。


夢中で走ってRec.についた。


そこで、晶叶は胃から登ってくる吐き気に襲われた。


慌ててトイレに駆け込んで鍵も閉められずに吐いた。

彼奴の唾の味がする。


「大丈夫…?」


海老名は背中をさすろうとして躊躇する。さっきの光景は明らかに襲われていたわけで。


今他人に触れられると余計にもどしてしまうんじゃないか。


息が上がる。まだ気持ち悪いけど、苦しくて、もう吐きたくない。

触られたところがぞわぞわして気持ち悪い。晶叶は思いきり脇腹に爪を立てた。


トイレの中の小さな手洗いでうがいをする。


「晶叶…、大丈夫だった?」


海老名はそれしか言えなくて。


「海老が来てくれなかったら、終わってた…」


「間に合ってたなら良かったけど」

間に合っていたんだろうか。晶叶の様子を見る限りでは一足も二足も遅かったような気がする。


「……う、」


晶叶は気持ち悪くて、ぞわぞわしてどうしようもない。泣けてくる。


「た、タオル…」


キョロキョロしてふくものを探す。


「ちょっと、カツヤさんに挨拶しないといけないし、行って借りてくる。まってて」


奥に事務所があって、そこにカツヤがいる。


「あれ?SODA FISHの子だよね?晶叶くんがお世話になってます。」


カツヤは海老名に気づくと自ら先に挨拶をした。


「いえ、こちらこそ。海老名です。よろしくお願いします。あの…晶叶がちょっと具合悪くてタオル借りれますか?」


「え、大丈夫?」 


席から立ち上がろうとする。

海老名はまだ話せない。今の状態の晶叶には会わせられない。


「いやいや大したことじゃないんです。汗かいてるからふこうと思って。」


「ああ、じゃあこれ使って。何かあったら遠慮なく声かけてね。少し休むように伝えて。あんまり寝てないんじゃないかな」


「はい。ありがとうございます。」


海老名は急いで戻ると、泣いている晶叶にタオルを渡した。


背中に手を当てると、特に拒否されるでもなかったので落ち着かせるように優しく擦った。


涙が溢れてくるようで、声は押し殺していたけど身体は震えている。こういうとき、俺じゃなくて蟹江くんのほうが嬉しいんだろうけどな。

海老名は、自分と晶叶の距離がもどかしかった。あまりにも他人だ。


「怖かった」


「俺も。」


「ありがとう」


「良かった。助けられて」


「ん。」


ポツポツと言葉が出るので反応する。


「あの人たち、大学のサークルの先輩なんだよね。透真くんと同じ年の。一人よく知らない人が居たけど……ごめんね。あんまり柄のいいサークルじゃなかったから。蟹くんの後輩だから仕方ないけど」


晶叶は、自分たちのことはあまり知らないだろう。蟹江や蛍井のことを自分たちと括ってしまうほど仲がいいわけではなかったが、晶叶より海老名のほうが明らかに事情は知っている。


「そう、なの?」


「晶叶は、噂知ってるかな…。

俺は後輩だからなんとなく知ってるんだ。

だから最初は蟹くんと透真くんには良い印象なくて。

蟹くんは大学時代から遊びがひどくて有名だったから。透真くんは優しいけど、蟹くんには何も言えないし。だから、BLACK PALADが解散したとき、表向きには全員就職するって話だったけど、ミナトくんだけは病んで引きこもりになったって聞いたんだよね。で、蟹くんが就職したのは、ミナトくんに慰謝料払うためだって。

それを妙に納得しちゃって。ああ、男にまで手を出すんだなって。」


今それを告げて良いものかはわからない。

けれど、今がいちばんマシなタイミングであることはわかる。


「……そう、なんだ」


晶叶には申し訳ないと思いながらも、隠していることのほうが残酷な気がした。


「バンド誘われたとき、本格的にデビューしようとしてるし、まあ…俺は蟹くんの好みじゃないだろうから被害はないだろうし。ミナトくんのことがあったから、もう同じことは流石にしないだろうなと思ってOKしたんだけど。

見てて、晶叶は危ないなと思ってた。蟹くん、すごく晶叶に構うじゃない?

周りからもそう見えたと思う。晶叶も蟹くんにあこがれてたんでしょ?

透真くんもそう思うから、蟹くんから守ろうとしてるように見えてた。」


泣きながら聞いている。晶叶に、構われている自覚は無かった。だけど透真がいつも自分と蟹江の間に入って世話を焼いてくれていることはわかった。


「どうしようか。蟹くんに直接聞く?この話噂だから本当かどうかはわからないんだよね。聞きにくいことだし、透真くんを通したほうがいいかもしれないけど」


「俺、これからこういう目に頻繁に合うのかな」


「ミナトくんも、蟹くんもファンが多いからね。無いとは言えない。あと、晶叶フツーにスキだらけだからね。」


また吐き気がこみあげてくる。

痛いと感じる一瞬だけ気持ち悪さが収まる気がして何度も何度も爪を立てた。

自分は、他人からそういうふうに見られているのだろうか。


「ごめん。一回一人になって落ち着く?今日の練習、休むって言ってくる。食べ物と飲み物買って戻ってくるから。嫌じゃなければ今夜は俺が一緒に居るよ」


「……うん、ありがとう。お願いしたい。」


海老名はカツヤに、具合が悪くて寝てるから部屋に入らないでほしい。自分はすぐ戻ってくると伝えて、スターダストに向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る