第9話「愚者の焦燥、賢者の豊穣」

「豊穣のオメガ」の噂は、飢えと混乱に喘ぐ王都レオンハルトに、一筋の光として、あるいは最後の蜘蛛の糸として届いた。

 第一王子アランは、その噂を耳にした時、最初は一笑に付したという。


「辺境に、そのような奇跡の力を持つオメガがいるものか。民衆が見る、都合の良い幻だろう」


 しかし、側近からもたらされる情報は、噂が単なる希望的観測ではないことを示していた。辺境領と交易のある国々が、実際に「奇跡の作物」によって飢饉を免れているという事実。そして、その作物がもたらす莫大な富。

 アランは焦り始めていた。

 聖オメガであるはずのリオルの祈りは、何の効果ももたらさない。それどころか、彼の存在を疑う声は、日に日に大きくなっていた。かつては彼の可憐さに夢中だった貴族たちも、国の危機の前では、冷たく手のひらを返し始めていた。


「アラン様、このままでは、我が国は……」


「分かっている!」


 アランは、側近の言葉を苛立たしげに遮った。

 彼のプライドが、辺境の噂を素直に信じることを許さなかった。だが、国が滅びるのを座して待っているわけにもいかない。彼は、ついに調査隊を北の辺境へと派遣することを決意した。

 その頃、僕たちの辺境領は、かつてないほどの活気に満ちていた。

 豊かになった資金を元に、僕たちは新しい事業を始めていた。僕の力で薬効が高まったハーブを使ったポーションや、甘くて美味しい果物から作るジャムや果実酒。それらは、行商人によって大陸中に運ばれ、辺境領の新たな特産品として、莫大な利益を生み出していた。


「すごいな、エリアス。お前がいれば、何も育たなかったこの土地が、宝の山に変わる」


 カイは、帳簿をつけながら感心したように言った。彼の領主としての才覚と、僕の力が組み合わさることで、辺境領は小国と呼んでも差し支えないほどの国力を持つようになっていた。

 領民たちの暮らしは格段に向上し、皆、希望に満ちた顔をしている。僕とカイの関係も、穏やかで愛情に満ちたものだった。彼は、領主としての仕事の合間を縫っては、必ず僕の元へ顔を出し、僕の体を気遣ってくれた。


「あまり根を詰めるなよ」


「大丈夫です。カイがそばにいてくれるだけで、力が湧いてきますから」


 そんな甘いやり取りが、僕たちの日常だった。

 やがて、王都から派遣された調査隊が、辺境領に到着した。彼らは、領地の入り口で警備隊に止められ、自分たちの身分を明かした。


「我々は、アラン王子殿下のご命令により、この地の調査に参った!」


 調査隊の隊長は、王都の騎士らしく、尊大な態度でそう告げた。カイは、僕を館に残し、一人で彼らの応対に出向いた。

 調査隊の騎士たちは、目の前に広がる光景に、我が目を疑っていた。

 噂には聞いていた。しかし、これほどまでとは。見渡す限りの黄金色の小麦畑。たわわに実った果実が陽の光を浴びて輝く果樹園。活気に満ちた人々の声。これが、地図の上では「不毛の地」と記されている場所とは、到底信じられなかった。


「……これが、本当に北の辺境か」


 騎士の一人が、呆然と呟く。

 カイは、そんな彼らを前にしても、一切動じることはなかった。


「いかにも。ここは、俺の治める土地だ。して、王都からの使いが、何の用だ?」


 熊のようなカイの威圧感と、彼の後ろに控える屈強な警備隊の姿に、調査隊の隊長はごくりと喉を鳴らした。辺境の蛮族と侮っていたが、とんでもない。この男は、一筋縄ではいかない。


「『豊穣のオメガ』について、お話を伺いたい。その者が、この地の豊かさの源であると聞く」


「ほう。そんな噂が王都にまで届いているのか」


 カイは、楽しむように口の端を上げた。


「だとしたら、どうする?そのオメガを、王都に差し出せとでも言うつもりか?」


「そ、それは……王子のご意志次第だ。だが、もしその者が国の危機を救う力を持つのであれば、王家が保護するのは当然のこと」


「保護、ねぇ」


 カイの目が、すっと細められた。


「あんたたちの言う『保護』がどういうものか、悪い噂は辺境にまで届いている。鳥籠に閉じ込めて、死ぬまで力を搾り取ることだろう」


 その言葉に、騎士はたじろいだ。


「俺の土地の人間は、俺が守る。たとえ相手が王家だろうと、指一本触れさせるつもりはない。……分かったら、さっさと帰れ。そして、アラン王子に伝えろ。これ以上、俺の土地と、俺の『番』に手を出そうとするなら、容赦はしない、と」


『番』という言葉。それは、この地にいる『豊穣のオメガ』が、この恐ろしいアルファの領主と、すでに魂で結ばれた相手であることを意味していた。それを力ずくで奪うことが、どれほど困難で、危険なことか。騎士にも、それくらいの想像はついた。

 調査隊は、カイの圧倒的な迫力の前に、すごすごと引き返すしかなかった。

 王都に戻った調査隊からの報告を受けたアランは、激昂した。


「番だと!?あのエリアスが、辺境の蛮族と番になったというのか!」


 そう、調査隊は、『豊穣のオメガ』の正体が、かつて自分たちが追放したエリアス・フォン・アルフレッドであるという、衝撃の事実も突き止めていたのだ。

 アランにとって、それは二重の屈辱だった。

 自分が「役立たず」と捨てた石が、国を救うほどの至宝だったこと。そして、その至宝が、自分の手の届かない場所で、別の男のものになっていたこと。


「許さん……許さんぞ、エリアス!お前は、私のものだったはずだ!」


 嫉妬と屈辱に顔を歪め、アランは愚かな決断を下す。


「軍を編成しろ!北の辺境へ向かう!力ずくでも、エリアスを連れ戻すのだ!」


 焦燥に駆られた愚かな王子は、最後の過ちを犯そうとしていた。その頃、賢者のいる辺境では、迫りくる脅威に対し、静かに、しかし着々と、勝利への準備が進められていたのだった。

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