あさひ

中村千

第1話

 彼女はいつも一人ぼっちの気分だった。言いようもない不安が胸に焼きついていた。夕焼けが辺りを赤く染める頃、彼女は踵を返して逃げ帰りたい衝動に駆られた。肩ほどもない黒い髪を風に揺らして。下ろしたての紺色のスカートも構わず。彼女は走りだした。何かに突き動かされるようにして走った。

 彼女の心臓はのたうち回るようだった。何度も何度も脈を打った。彼女を死なせまいと。足は絡まり、けれども持ちこたえた。彼女を傷つけまいと。頬はりんごのごとく赤く染まった。彼女は走り続けた。

 夕陽が半分ほど地平線に消えた頃だった。彼女は一軒の家の前に立ち止まった。家は古い平屋の二階建てで、窓からは薄っすらと醤油の匂いが漂っている。その窓がカラカラと音を立てて開いて、妙齢の女性の目が彼女を捉えた。

「おかえり。どうしたの、すごい汗ね」

彼女はうんとだけ言って、玄関の引き戸を開けた。慣れた手つきだった。

「おやつ食べる? さっき叔父さんが持ってきてくれたお芋、蒸かしたけど」

うん、と言って彼女は階段の一段目に足を置く。二段目に差しかかろうとしたとき、黒い毛並みが足元をくすぐった。

「こま」

呟いて、彼女はそれを抱え上げる。毛の短い黒猫だった。丸い金色の目を天井に向けている。いくらかうろうろと視線をさまよわせた後に、諦めたように目を閉じる。それはこの状況を嫌がっているようにも喜んでいるようにも思えたが、彼女にとってはどちらでもよかった。

 彼女は黒い毛並みを確かめるように、念入りに撫でながら進む。黒猫がにゃあと鳴いた。彼女の手は一瞬止まって、やはり撫でることはやめなかった。ただ、先ほどよりも幾分穏やかな手つきだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あさひ 中村千 @yuki_nakamura-003

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る