祈りの果て

花山 華残

霧の怪物 焔の歩み

闇に祈りが遮られ、意志を託せず死んでゆく。

人の世に差す光は陰り、人ならざる者が道を征く。

声が祈りを運ぶ時、焔が闇を切り開く。

我は人にあらず。されど、剣のことわりは変わらぬ。

救いとは、生かすことに非ず。終わりを正すこと。

炎は、滅ぼすために非ず。還すために在る。

そうして焔は歩みを始めた。






村の入り口には張り紙があった。助けを求める声だ。短くつづられたその言葉に、影が差す。鎧だった。しゅに染め上げられ、金色の装飾が走る。左腰に帯びた剣は飾らず、無骨だった。背に薔薇と剣が縫い込まれた布をはためかせ、紙を掴む。

その姿を村人達は遠巻きに見ている。声を掛ける者は無い。鎧は村に入り、口を開く。


「張り紙を見た」


低く、掠れた声が響いた。



鎧の声に応えたのは、一人の老人であった。老人は語る。


いわく、森から雄叫びが聴こえるのだと。曰く、それを確かめに行った村人が帰ってこないのだと。遂には村に降り立ち、人を貪る影があるのだと。


「騎士様」老人は声を震わせながら言った。


何卒なにとぞ、何卒御慈悲を」


その縋る声に応えるように剣を抜く。直後、地を裂くような雄叫びが聴こえた。



それは、堂々と村に歩み寄ってきた。熊だ。その身は腐り、崩れた肉に白い影が覆っている。その白い影はうぞうぞと身じろぎをしていた。熊が歩を進めるたびに地が揺れた。村人達は怯え、家に隠れた。


老人は腰を抜かし、身体を震わせる。村を我が物顔で進む熊に、鎧は歩み寄る。老人は見た。その背中を。背に負う布に縫われた薔薇と剣を。


事は一瞬であった。一閃。剣を振りぬいた鎧と、崩れ落ちる熊。その首は、地を赤く染め上げた。


血を払い、鞘へと剣を納める。鎧は村の出口に向かっていた。

老人は震えながら声を掛ける。返事は無い。答えたのはただ翻る布だけだった。

薔薇と剣を縫い込まれた布が、老人を見返していた。



夜、月明かりが街道を照らしていた。歩を進める鎧に声が掛かる。姿は無く、響く声は柔らかであった。女の声だ。声は低く、心地よい。


「どうやら魔を払えたようですね。騎士様」


鎧は答えることなく歩む。声は気にすることなく続いた。いつも通りなのだろう。


「次は街道を進み、森へ向かってください。そこに助けを求める声があります」


鎧は立ち止まり、地を見やる。そして剣を抜いた。人の手が突き出ている。それは皮膚が裂け、肉が覗く。

かつてこの地で殺され、地に埋められた者たち。その肉に魂は無く、されど人を襲う。

この夜、この地は人ならざる者達の場。只人は惑い、おののき、命を散らす。その叫びは夜の闇に呑まれ、届くことは無い。だが、ここに立つものは違った。

鎧は伸びる手に歩み寄る。一歩、二歩。──三歩目に差し掛かった時、地が揺れた。



地をかき分け現れたのは、人の亡骸であった。髪は抜け落ち、眼窩は窪み、瞳は無い。肉と土に塗れた体は、骨が所々覗いている。それらが四つ、鎧へと手を伸ばしていた。


「お急ぎください。人の身で夜は越せません」


女の声が響く。鎧は剣の腹に左手を這わせ、短く呟く。剣に込められたのは、熱と光。それは、鎧が生まれながらに持つ力。剣を亡者達に掲げ、祈る。それだけだった。

掲げた剣より光が降り注ぎ、亡者達を包む。肉が落ち、骨が溶ける。そこに苦しみは無い。

剣の光に、亡者達はひざまずく。いつしか手を合わせ、声なき声を上げていた。

消える。肉と骨が消えていく。

後には何も残らない。ただ、亡骸の納まっていた穴が残るのみ。


「人を寄こします。森へ」


女は言った。鎧は月明かりに照らされた己の影に手を伸ばす。

鎧が己の影に手を伸ばすと、影がうごめいた。波打つように影が揺れ、静まる。それは音もなく影より現れた。馬だ。赤く染め上げられた鎧を身に着け、そこにある。その鎧は、黒い毛並みに映えていた。鎧は馬を撫でる事も無く、ただあぶみを踏み、跨がった。月の光に照らされた二つの影は、森へと進んだ。



街道を抜け、森に立つ。静かだった。木々のざわめきや葉の擦れる音さえも聞こえぬ。月光さえも通らぬ森は、まるで怪物が口を開けているかのようだ。その森を鎧は進む。声に導かれて。

一際ひときわ大きな樹の下、小さな身を寄せ、震えている姿が見えた。鎧の発する音を聞き、その体を大きく震わせる。こちらを見やり、か細い声で言う。


「...た...すけて」少年だった。


目は白く濁り、首筋には噛み跡がある。鎧は剣の柄に手をかけ、近づく。兜の奥の視線は、少年の背後を見据えていた。


「その子はもう、戻らんよ」


男の声が響いた。


わらう影が、森の闇より姿を現す。口元に血をしたたらせて。



呻きが聞こえた。少年からだ。地に伏せ、口からは泡を吹きだしている。苦しいのだろう。指先は土を掴むように曲げられていた。


「その子が気になるか?」


男が鎧に問いかける。低く、しかし通る声。その問いに、鎧は沈黙を返した。少年の方へ歩く。


「ほう?何をする気だ?手遅れだというのに」


男の視線が、その動きを追う。鎧が少年のもとに歩み寄り、傍らに跪く。音もなく剣が抜かれ、切っ先が少年の背に向いた。


「......すまぬ」


剣が肉に沈む。その冷たさに少年は身体を震わせ、動かなくなった。


男にとってそれは、予想外の事だった。騎士──それは弱きを護り、正しき道を行くものである。それが、守るべきものの命を自ら奪ったのだ。それを理解したとき、男は牙を見せ、嗤う。


「そうか、そうか。貴様は魔を払う剣。そこの少年は、貴様にとって救うべき者ではないのだな」


男は鎧を嘲笑あざわらう。男の問いに鎧は答えない。その背にある、薔薇と剣の縫い込まれた布が、男を睨みつけていた。



鎧は、少年の背に刺した剣に両手を添える。それは祈りだ。


人を――人として終わらせるための祈り。


闇に覆われた筈の森に、月明かりが差し込む。柔らかな光が鎧と少年を包む。続いて、剣より火の粉が舞う。空気が変わった。森を取り巻く闇が震え、鎧から熱が伝わる。その剣に添えられた両手から、炎が漏れた。

両手から剣へ、炎が伝わる。少年の背中を包む。まるで、抱きしめるように。

それは、静かな光だった。陽だまりを思わせる、優しい炎だった。


男の嗤いが途切れる。


「...何だ、これは...?」


男の目に映るのは、炎でありながら、闇を照らす光。

少年の濁った眼も、泡を吹く口元も年相応に戻り、穏やかな顔を見せる。

その炎が消えると同時に、少年はさらさらと灰になり、消えた。

鎧は剣を握り、立ち上がる。その握られた剣からは、炎が走っていた。

鎧の背を見つめ、男は問う。


「騎士よ。貴様はなぜ、その力を振るう?血の通わぬお前が、なぜ救う?」


鎧は振り向き、答える。その声には芯があった。


「我は人にあらず。されど、剣のことわりは変わらぬ」


兜の奥より放たれる視線は、どの刃物よりも鋭かった。



男に親は無かった。霧より生じた。身に滾る力を、男は気まぐれに振るう。

その爪は鋼を紙のように裂き、皮膚は刃を拒む。霧と化した体は触れることすら叶わず。その牙は、人を魔に堕とす。

村を襲った。街を焼いた。国を落とした。戯れに人々を眷属にし、引き連れた。

抗う者がいた。騎士が、魔女が、精霊が。それらをくだし、飲み干し、なお渇く。

血を啜り、霧に紛れ、血の河を作る。その男を、人々はこう呼んだ。


吸血鬼──と。



爪と剣が交差した。爪は鎧を割り、剣は霧を裂いた。霧はくうに広がり、鎧は割れ目より炎が吹き上がる。闇が深まり、空気が震える。理と理の交差する先──鎧が立っていた。


「......終わりか」男の下肢は飛び、左肘より先が無い。


笑みを浮かべながら、鎧に顔を向けた。


「いい夜だった。幾度となく夜を越えたが、初めてだ」


男は満足そうに眼を閉じ、霧へ変わる。霧は空に流れ、混ざる。

鎧はただ、空を眺めていた。






夜が明けた。

焔は去り、声だけが残った。

我は祈りを運ぶもの。嘆きを掬い、風へ放つ。

彷徨う影に、灯火とうかを見た。

人は死して土へ還り、声は明日へ紡がれる。

我は語ろう。人の世の、救いを求めるその声を。

焔が照らしたその道を。

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