朝熊食堂のしあわせほっこり飯
猫田おとも
第1話 山田さんの徹夜明けからあげ定食
山田は、仕事帰りだった。
しかも徹夜。山田の仕事はたまにこんな日がある。
そこそこ大きな企画だったので、調整だの不具合の修正だの、完璧なものが世にでることなど稀なので、仕方ないことなのだが。とにかく、昨日から昼までフル回転だった。
徹夜明けの日差しは眩しくて、しかし平和だ。道行くサラリーマンやOLは、ランチに向かうのだろう。
十三時という時間から考えれば、おのずと働かない頭でもわかる。
最後に食べたのは明け方のゼリー飲料だったはず。それから、眠気が増すのを嫌って食事はとっていなかった。
コーヒーばかりでお腹は満足するはずもなく、胃がキュウキュウと鳴いていた。
なんとか飯を食べなくては、フラフラと辺りを見回すと、路地に小さな手書きの黒板が出ていた。
〈あさくま食堂 本日のランチ からあげ定食 ※味は選べます〉
お値段は、九百円。味は選べますとは、それは塩か醤油かという意味なのか。想像だけで、唾液が止まらない。
そっと、路地を進んでいくとあさくま食堂と書かれた提灯が店先に吊るされていた。
元々は、居酒屋だったのだろう。店構えに名残がうかがえた。
入ろうか、と暖簾をくぐろうとすると、サラリーマンが中から出てきた。
「じゃ、くまちゃんまた来るよ」
「はぁい、午後も頑張ってくださいね」
顔がテカテカしたサラリーマンは、山田を見ると小さく会釈して大通りへと歩いて行った。
開けっ放しの扉にためらいを投げ捨て、山田は店の中へと入った。
カウンター席が五席、奥にテーブルがひと組だけの本当に狭いスペースだ。
カウンターの向こうの店主が山田を見て、トコトコやってくる。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
小柄で健康的な見た目のやわらかな笑顔が印象的な女性だ。
声も、のんびりおっとりしていて、つられて気持ちがほわ、と緩んでくるような気がした。
「カウンターでも構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
ニッコリ、邪気の無い笑顔を返されて、ここ数日の激務で淀んでいた気持ちがさっと洗い流されるような心地がする。なんだろう、やっぱり疲れているのか。
ちょっぴり高さのある椅子に座れば、店主が温かいおしぼりを2つとほうじ茶をもってきた。
「こっちのね、茶色いおしぼりは熱めです。目に当てたり、首に当てたり好きに使ってください。白い方は普通に使って大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
なんともありがたい心遣いに、山田は自然に笑ってお礼をのべる。
その前にメニューを、と備え付けられているファイルを手に取る。
〈からあげ定食 醤油又は塩
お好みでたれ一種類
・明太マヨソース
・スイートチリ
・おろしポン酢
・ねぎ塩
・なしもできます(-五十円)
ご飯、お味噌汁、おかわり自由。
※からあげは醤油と塩、ハーフもできます。明太子からあげも可能です。お持ち帰りに半身揚げできます。〉
記憶を巻き戻して、本日のランチと書いてあったのを思い出して、もう一度見る。ここは、からあげ専門でも鶏専門でもないはずだ。
とりあえず、選ぶことにする。
ハーフができるなら、これにするとして後は地獄のソース決めである。
いきなりの明太マヨ。カロリーとプリン体の爆弾である。味はいわずもがな、うまい。
ぷちぷちした明太子の食感とマヨネーズのこってりした味に、ディップおかわり余裕だろう。おかわりができればの話ではあるが。ピンクの悪魔ってお前のことだろう。
スイートチリは、エビチリのソースだろう。ご飯が進むキングオブヒーローだ。
自分でもたまに作るのだが、これがまた曲者で日々、好みの味になるように作っている。が、なかなか安定しない。これをからあげと組合せようだなんて、罪深い店主だ。
おろしポン酢は、名脇役である。
みぞれ煮やしらすおろしでサイドを飾ることもあるが、基本は添え物だ。
おろし多めポン酢も多めが好みなのだが、果たしてここはどうなのだろうか。
ねぎ塩は、刻みねぎに中華ベースのソースだろう。ぱっと見は地味だが、癖になるねぎのしゃきしゃきと中華の深みのあるベース。
なしにしたっていいけど、今日はご褒美として、たれをつけて食べたい。年齢的にはこういうこってりした揚げ物はよくないとは思っているが、食べないとやってられない日もある。
仮眠をとったら家事をして、今夜は、寝る前に運動をしっかりしないと。
手を上げて、店主を呼ぶ。
「からあげ定食、ハーフで明太マヨにしてください」
「お味噌汁、無料で豚汁に変更できます。今日は、わかめとお豆腐ですよ」
「ぐっ……お、お味噌汁で」
はぁいと、返事をして店主が手元でメモをとる。
「ご飯は大盛無料です」
「大盛で……お願いします」
店主がニッコリと笑う。嬉しそうだ。
注文をとって、さっと調理場へと戻っていく。その足取りはやはり、軽やかだ。
ここから、調理風景が見えるので自分のからあげがあがるのを待つことにした。
冷蔵庫で浸けられていた鶏肉をもりっと粉の入ったバッターにうつす、塩味の色が薄いものと醤油の濃い色が見えた。
片栗粉か、小麦粉か、食べなければわからなそうだ。さっさと手際よく粉をまぶしていく。
見ていて気持ちがいい。菜箸を油に浸す。その横顔は、職人の顔だ。
もらったホットタオルをうなじに当てて、肩から力を抜くと忘れたはずの睡魔が少し。
しゅわわわ、と油の音がする。綺麗な金色の油。揚げる度にかえているのだろうか。時々、ひっくり返すのをぼんやり見る。
誰かの気配と誰かの食事を作る音。適温の心地よい店内、クッションが少しへたれた椅子。健康そうなガジュマル。丁寧に磨かれたテーブル。
スタッフオンリーと書かれた札のある扉は、足元のところがガラス張り。そこにうっすら見える特徴からしてまっすぐにピンと尻尾を立てた白い猫。
なるほど、彼女は猫を飼ってるのか。
店のカウンターの端には猫の写真がいくつか。どれも、艶やかな毛並みの白い猫がくりくりした青い瞳でカメラを見ている。
「はぁい、お待たせしました。からあげ定食です」
つやつやのご飯が、青い熊柄がついた茶碗にこんもり盛られている。大皿にのせられた唐揚げたち。やや大ぶりで、食べ応えのありそうなサイズだ。白っぽい方は塩唐揚げだろう。
大皿の側に置かれている小皿には、明太子マヨネーズ。この世の罪とはこのことだ。百グラムで四百カロリーはあるとか、本当だろうか。大盛りのご飯からしたら倍だぞ。なんだこのピンクの悪魔は。隣に添えられたシャキッとしたキャベツの千切りは、ふんわりしていて添えられたマヨネーズ、パセリ、きゅうりの薄切り二枚が身を寄せ合っている。
これこれ、揚げ物にはキャベツ。濃い味に脂、それだけではよくない。
キャベツがいるから揚げ物は最後までおいしいのだ。
お盆の端っこに並ぶのはひじきの煮物。自分ではほとんど作らないやつ。
でもおいしいんだ。誰かの作ったひじきの煮物って。
本当に頑張った自分、お疲れ様。今日くらいはカロリーに殴られてもいいだろう。
なんせギリギリ二十代。まだいける。
「いただきます」
箸を綺麗に割って、満足感を味わいながら、まずは醤油唐揚げへと向かう。オーソドックスだけれど、これがまさに唐揚げ代表。これをなくして、唐揚げは語れまい。
箸で掴めるギリギリの大きさの鶏肉。まずはなにもつけないでひとくち。
カリッとした衣と口の中でぷしゅと弾ける肉汁。肉は柔らかくて、熱々で口から湯気が出そうだ。
「あちっ、はふっ! ん~~っ」
上顎をちょっと火傷したが、気にしない。噛めば噛むだけ口の中に鶏肉のうまみがひろがる。カロリーがうまいとは、いい言葉だ。あまりにもうまい。
ザクザクと衣が軽快な音を立てている。
揚げ物だけれど想像より油っぽくはなかった。
やはりプロの腕前なんだろう。ごくっと飲み込んで、味噌汁をひとくち。
味噌の香りと出汁の風味、わかめをちゅるっと食べて、思わずはぁーっと息をつく。からっぽの胃に、温かなお味噌汁。冷えた体が、胃を中心に温まっていくのがわかる。生命を維持するだけではない。おいしい温かいご飯は、体も心もほっとさせるのだ。
口の中の油をすっきりさせて、次は塩唐揚げに明太マヨをちょんっとつけて、齧る。
「んむ……はぁっ」
素晴らしいコンビネーションだ。ぷちぷちした明太子の食感とピリ辛さが、唐揚げの肉汁と絡み合って幸せな味がする。
これは、いい鶏肉を使っているのだろうと思った。技術と素材の相乗効果も相まって、ぷりっとした鶏もも肉は、山田の口の中でこれでもかと弾力ある歯ごたえと旨味をアピールしてくる。
これは、親子丼でも絶対においしい。確信があった。
旨味の嵐を前にして我々ができることと言えば、うまいと言葉にだして叫ぶことくらいだ。
今この場で脂質がどう、カロリーがどうなど無粋な考えだ。今日のご飯がおいしいのが一番だ。これだけ頑張ったのだから揚げ物の帝王くらいは口にしたっていいだろう。
はふ、と熱い息を吐きながら、山田の口角は上がりっぱなしだった。
ビールを飲むには空腹すぎ、疲れすぎであった。だからこそ唐揚げである。
ザクザクと衣に歯を立てて、あつあつの肉汁を口いっぱいに堪能する。
脂でこってりしたところをキャベツの千切りをひとくち。
ふわっとしたキャベツは、市販のものよりチクチクしない。
柔らかく、優しい歯ごたえでおいしい。
コンビニのサラダとは違う。キャベツの千切りって、こんなにおいしいのか。
噛めば微かに青臭く、しかしみずみずしい。
何が違うんだろう。山田には何もわからないが、違うということはわかった。
ここでひじきの煮物をそっと口へ運ぶ。なんせパラパラとこぼれやすいので。
噛めばじゅわりと出汁が溢れる冷たいおかず。
ひじきとにんじん。それとこれは油揚げ。小さい頃は黒い見た目がちょっと不気味だったが今ではつまみやお通しでよく食べる。俺も大人になったんだな。
しみじみと時の流れを胃袋で感じた。
そしてまた、唐揚げを口へ運び、咀嚼し白米をわしわしとかきこむ。
ふっくらもっちりした白米は噛めば噛むほど甘く、しっかりした存在感をアピールしてくる。ああ、もっとこの米を食べたい。しいて言うなら、卵かけご飯とか。きゅうりにマヨネーズをちょんとつけて、触感を楽しむ。パリパリ。きゅうりは水分。野菜だからなお良し。そう自分に言い聞かせ、山田はまた唐揚げを齧るのだった。
▽▽▽
ああ、どうしておいしいものってすぐに無くなるんだろう。
ほうじ茶を飲みながら山田はふう、と息をついた。
「ごちそうさまでした」
ああ、おいしかった。
額にかいた汗をハンカチで拭いながら、余韻に浸る。
明日の自分の糧になるご飯。
あったかくておいしい。心も満タンになるそういうもの。
鞄を持って、立ち上がってレジへ向かう。
財布を鞄から探していると、レジ前にいた店主と目が合う。
彼女はニッと笑った。笑うと目がなくなるタイプだ。
「九百円です」
「はい」
財布から五百円と百円をトレーに入れる。
「まいど! お兄さん、顔色良くなったね」
「あ……はは、おいしかったんで……また来ます」
ありがとうございました、という元気な声を背にからりと扉を開ける。
秋の風が熱い体に気持ちいい。
この後の仮眠はよく眠れそうだ、と山田は足取り軽く駅へと向かった。
朝熊食堂のしあわせほっこり飯 猫田おとも @kukuroco221
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