一月二日の朝に

紫鳥コウ

 最初に引いたはい和了あがるまで打とうと無茶を言って、少ない知り合いの中から、なんとか三人を集めたものの、一向に役は作れず振り込んでばかりで、むしゃくしゃしてしまい、ひとり先に雀荘じゃんそうを出た。


 空はうっすらと明らんでいた。寒々しい風が目抜き通りを寂しそうに吹き抜けていく。歩道橋の真ん中で立ち止まり、り切れてきたコートのえりを気にしながら、車もひとも見えない夢のような景色を眺めた。いま目の前にあるのは、人生の最期さいごに見る光景なのではないかと思えてきた。


 コンビニに入り、カップ麺やスナック菓子や炭酸飲料を買い、こんもりとした袋を片手に持ちながら、住宅街の外れにひっそりとたたずむアパートの二階の一番奥にある部屋に戻った。


 敷きっぱなしのふとんを二つ折にしてすみへのけると、電気ストーブをそばに置いてパソコンを立ち上げて、オンライン対戦の麻雀ゲームを起動した。対戦相手が見つかるまでの間に、スマホのタイマーを四分にセットして、カップ麺にお湯をそそいだ。


 コンビニはもちろん、家まで戻ってくる間に、ひととすれ違うことはなかった。下を向いて歩いていたから、遠くにひとがいるのに気づかなかった、ということはない。ぼくは確かに、顔を上げて歩いていた。


 なにか、はっきりと音らしいものを聞いただろうか。いや、聞いた。具体的には思い出すことはできないけれど、抽象的に表現するならば、朝の音とでも言えそうなものを、確かに聞いた。


 年明け早々に麻雀ゲームにきょうじるひとは、そんなに少なくないらしい。それならばと、昼まで何戦か続けて打つつもりでいたのだが、カップ麺を食べてしまうとすぐに眠気がやってきてしまった。


 こらえきれず、たたみの上に横になった。なんとも言えない、寂しい正月の空気を全身で感じ、カーテンを閉ざした部屋に忍び込んでくる朝陽の影を、うすれていく視界の中にうっすらと映しながら、眠りの底に続く穴のふちに手をかけた。


     *     *     *


 カーテンに閉ざされた暗い部屋の中に、夕陽が少しだけ差し込んでいる。うっすらと見える天井にじっと視線を注ぎながら、自分の論文のことについて考えた。もう期日までに完成させることができないであろう、修士論文のことを。


 哲学や思想が流行らないことも、人文系よりも理数系の学問が持てはやされている現状も、知っている。簡単には行けない地域でフィールドワークをしたり、世界的に有名な大学の大学院に留学したりするのが、立派なステータスになるということも、分かっている。


 ぼくのしている研究はもう、意義すら見出してもらえないし、価値もないと思われているだろう。それをぼくは、身に染みて感じている。


「いまどき、文系の大学院に?」

 何度この言葉で殴られたことだろう。殴られたことにカッとなって、殴り返したくなったのは、何回あっただろう。知人や友人だけでなく、親類にまで言われる始末だ。いまでは、自分でもそう思ってしまうときがある。


「わたし、実は研究者をしているんです」

 あの日、彼女はさらりとそう告白した。

「なにを研究しているんですか?」

 そういてはみたものの、その研究が熱力学に分類されるということと、ぼくには物理のことは、ほとんど分からないということしか、理解できなかった。


 その告白を受けてから、小説が好きという共通点でアプリを介してマッチングした彼女と、もう二度と会わないことに決めた。


 好きだった。気がくし優しいし、見た目もタイプだったし……それなのに、理系の研究者という、プロフィールに記載きさいされていなかった一面のせいで、一気にめてしまった。


 重い腰を上げて部屋の電気をつけ、本棚から文庫本を三冊取り出した。布団に腹ばいになり、読み古した小説を飛ばし飛ばし読んでいく。フィクションの中の恋愛は、どうしてこう、ぼくの過去の恋愛を思い出させるのだろう。書かれているのは、現実にはありもしないようなことに違いないのに。


 交換したまま、もう連絡を取っていない理系の研究者の彼女――砂月さつきさんのことに、想いをせてしまう。彼女の職業に対するコンプレックスだけで、あのときの慕情ぼじょうて去ってしまって、良かったのだろうか。


 まだ好きなのかと問われれば、未練がないとは言えないと答えるしかない。だけどもう、誰か他のひとと付き合っていることだろう。誰とも付き合っていないところを想像することができない。それくらい、彼女は魅力にあふれているひとだった。


 痛む心の傷をさえて確かめてみると、相変わらず、《昨日は楽しかったです!また誘ってくださいね!》というのが、砂月さんからの最後のメッセージだった。


 履歴をさかのぼる。顔文字や絵文字を器用に使いこなしている。きっと気に入っているのであろう、枕に顔を乗せて眠っている羊と、ウインクをしてオーケーサインを見せているカンガルーのスタンプ。タップしてショップをのぞいてみると、表示されたのは、ちょっとお高めの値段だった。


 なにかメッセージを送ってみようか。そう思ったのは、いったい何度目のことだろう。文面を考えている間に、悲しくなって、涙がこぼれてしまうだけなのに。

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2026年1月1日 10:30
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一月二日の朝に 紫鳥コウ @Smilitary

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