夜明けの空にまいた種
島本 葉
祈り
俺はずっと星ばかりを数えている。
塹壕から見える夜空は、皮肉なことに故郷の空よりも澄んでいて、星が鮮やかだ。凍えるような冬の冷たい星空だった。
ポケットから取り出したビスケットの袋を破こうとしたが、うまく指がかからなかった。震えているのは、寒さからか、それとも他のなにかのせいか。
もう一度空を見上げる。
ここに待機を命じられてから六度目の夜だった。
じっとしていると、身体の中心から湧き上がる恐ろしい何かに塗りつぶされてしまいそうで、何かを数えるくらいしか、それを食い止める方法が思いつかなかったのだ。耳の奥で、鼓動と同じリズムで何かが脈打っていた。
大きく息を吐き出し、袋の端を咥えて引っ張る。分厚いアルミの袋が乾いた唇を引っ掻いて、痛みが走った。切れてはいないようだが、ピリピリとした刺激が残っていた。
「痛ぇ」
小さな声で呟き、ビスケットを齧る。まだ喋れる。まだ食える。それは生きているということだ。
パサパサしたビスケットを少しずつ、少しずつ噛み砕いた。小さい頃に森でみた子リスが前歯で樹の実を齧るように。
少し離れた向こうでは、同じ部隊の男がただ立ち上がったり座り込んだりして、首を振っている。まるで止まりかけたゼンマイを巻き直すように。あいつもそうして、抗っているのだ。ここに来た頃は、お互いに声をかけ合うこともあったが、今では、互いに干渉することを避けるようになっている。
声をかければ届く距離なのに、今はひどく遠い。こんなにも独りの世界で、俺たちは何を守ろうとしているのだろう。
ビスケットを無理やりに腹に収めるとボロボロと崩れた欠片が手の中に残った。それをじっと見つめていると、故郷で見た種籾のように思えた。
ゆっくり目を閉じてみる。静まり返った冷たい夜の静寂の中で、手のひらの種籾を思い浮かべる。
手のひらに一杯の、黄金色の籾殻だ。
それらが、手のひらのくぼみのあたりで、仄かに熱を持ったように感じた。暗闇に、やがて緑がぼんやりと浮かんでくる。周りの木々よりも濃い緑の絨毯が、一面に広がっていた。暑い夏の日差しと首すじに流れる汗。青田を揺らす風が心地よい。傍らに立っているのは、年老いた母と、泥だらけになって笑う弟たちだ。
──今年もよう育ったねえ
ハッと目を開けた。
幻の温もりが、現実の冷たい風に剥がされていく。足元から震えが上がってきて、俺はまだここにいることに怯えた。
空を見上げると、塹壕の向こうに、薄っすらと白い帯が広がっていた。青みがかった空には、まだいくつかの星がまたたいている。
この景色は美しいと思った。
まだ胸の奥には熱が残っているのだと。
手のひらには、崩れたビスケットの欠片。幻のように、こぼれるほどに一杯あるわけではない。僅かばかりの、籾殻だ。
祈るように、ひときわ輝く星を見上げた。
そして、その僅かな籾殻を、夜明けの空へそっとまいた。
(了)
────
第69回「2000文字以内でお題に挑戦!」企画
https://kakuyomu.jp/user_events/822139837031669962
・2000文字以内で完結する物語であること
・お題に沿った書き下ろしのみ
・お一人様一作のみ
・タグに「夜明けの空にまいた種」と記入
✒️創作のお題
『見知らぬ場所』
#創作お題【見知らぬ場所】どんな物語を紡ぎますか?
#創作 #創作お題
夜明けの空にまいた種 島本 葉 @shimapon
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