第23話 霧に沈む街
朝の霧は、まるで街そのものを呑み込んでいた。
石畳は濡れ、露を含んだ空気が喉にまとわりつく。音が吸い込まれるような静寂。まるで世界が息を潜めているかのようだった。
荷車の車輪が、ぎしりと軋む音を立てる。
悠真はその取っ手を握りながら、ぽつりとつぶやいた。
「……なんか、静かすぎねえ?」
隣で歩くリサが、矢筒を軽く叩いて苦笑する。
「落ち着くけど……ちょっと怖いかも。鳥の声も、しないね」
その言葉に、悠真は周囲を見回す。
市場に並ぶはずの屋台は閉まり、商人は店の戸口をそっと閉ざしている。
母親が子どもを抱き寄せ、犬や猫は尻尾を丸めて低く唸った。
――異様だ。
生き物たちの本能が、何かを“拒んでいる”。
「……まるで、街が何かを怖がってるみたいだな」
悠真がそう呟くと、霧の中から柔らかな声がした。
澄んだ声――クリスティアだ。
「世界が――息を止めているのかもしれませんわね」
金の髪が霧の光を受け、ぼんやりと輝いていた。
上品な微笑みを浮かべながらも、その瞳は警戒の色を帯びている。
「クリスティアでも、そう思うか」
「ええ。……けれど、こういう時こそ冷静に動くのが“領主の娘”の務めですの」
彼女は軽やかに言いながらも、指先では杖を握りしめていた。
碧眼の奥に宿る緊張が、霧の冷たさをより鮮明にする。
ミリアが前に進み、手を掲げる。
「魔力が……乱れてる。この霧、自然のものじゃない」
青白い光がミリアの指先に灯り、空気中の粒子を照らした。
光の筋が流れ、やがて魔法陣が浮かび上がる。
その瞬間、通信石が淡く光った。
声が響く。――セレナだ。
《霧が動いてる。……悠真、リサ、警戒を》
その声には、いつもより少し緊張が滲んでいた。
彼女の分析が正しいなら、この霧は“仕掛け”だ。
「霧が動くって……どういうことだ?」
《風じゃない。風の流れそのものが変質してる。たぶん……術式の一部》
セレナの声が切れる直前、軽いノイズ音が走った。
悠真は息を呑み、荷車を止めた。
「……まずいな。街ごと覆うつもりかもしれねえ」
広場へ向かう途中、兵士たちが警備線を張っていた。
領主軍の甲冑が鈍く光り、冒険者たちも集まってくる。
「霧の発生源は確認できていません!」
「商人たちを避難させろ! 早く!」
指揮官が怒鳴り、周囲は騒然となる。
リサが肩をすくめた。
「こういう時に限って、当たるんだよね、嫌な予感って」
「それ当たったらシャレになんねぇよ」
「うん、だから……当てたくないなぁ」
二人の軽口は空回りするように霧へ消えた。
笑いも声も吸い込まれていく――不気味なほどに。
ミリアが静かに呟く。
「……何か来る。魔力が集まってる」
その直後――。
霧の奥で、微かな足音がした。
こつり。
こつり。
乾いた音が、何度も響く。
「おい、誰かいるのか!?」
兵士が叫ぶと、霧の向こうで影が揺れた。
やがて、黒いローブに包まれた数人の影が現れる。
彼らはゆっくりと、しかし確実に歩みを進めてきた。
「……信徒だ」
悠真の声が低くなる。
「光を拒む者に――闇の祝福を」
その声は、まるで呪文のように響き渡った。
霧が震え、空気がひび割れる。
領民の悲鳴が上がり、兵が武器を構える。
クリスティアが即座に通信石を取り、鋭く指示を飛ばした。
《全員、後退! ミリア、結界を!》
「はいっ!」
ミリアの手から眩い光が放たれる。
「――聖封陣、展開!」
光の輪が地面を走り、霧の侵入を阻むように広場を包み込んだ。
しかし――その瞬間、黒衣の信徒たちが同時に呪符を掲げる。
霧が黒く染まり、低い唸りが響いた。
「なんだ……これ!?」
「霧が……動いてる!?」
リサが叫ぶ。霧の向こうから、何か巨大な“影”が迫っていた。
「悠真、避けてっ!」
クリスティアの声に反応し、悠真が身を翻す。
次の瞬間、地面から黒い腕のようなものが突き出し、石畳を砕いた。
「なっ――!?」
粉塵が舞い、視界が白く霞む。
結界が揺らぎ、ミリアの額に汗が滲む。
「魔力が……濃すぎる!」
「くそっ、こっちも防御陣を展開しろ!」
兵士たちが叫ぶ中、悠真は荷車の裏に身を伏せ、呼吸を整える。
(守らなきゃ……誰も傷つけさせねぇ)
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
これまで“流されて”戦ってきた彼が、初めて自らの意思で剣を握った瞬間だった。
リサが弓を引き絞る。
「……来るよ!」
黒い影が一斉に跳ね上がり、獣のような咆哮を上げる。
矢が放たれ、ミリアの光が爆ぜる。
クリスティアが叫ぶ。
「街を――守るのです!」
悠真は槍を構え、目を見開いた。
「全員、下がれっ! 結界の内側を死守する!」
霧の中、信徒たちの詠唱が重なる。
低く、呪うような声。
――その直後。
轟音が広場を包み、石畳が崩れた。
「悠真っ!」
クリスティアが走り寄り、腕を掴む。
霧に濡れた髪が頬に触れた。ほんの一瞬――世界が静止する。
「無事で……よかった」
「俺より先に逃げろっての」
「あなたを置いて逃げるなんて、できませんわ」
彼女は微笑んだ。霧の白さの中、まるで光のように。
悠真は小さく息を呑み、苦笑した。
「ほんと、領主の娘ってのは頑固だな」
「ええ。……特に“命の恩人”には、従順ではいられませんの」
「……それは、褒めていいのか?」
「ええ、ぜひ。今度、報酬で返していただきますわ」
彼女の笑顔には、ほんのりとした茶目っ気と――確かな想いがあった。
再び通信石が光る。
《援軍は十数分後、持ちこたえて!》
セレナの声が響き、空気が震える。
「十数分か……長ぇな」
「でも、やれるだけやるしかない」
リサが矢を番え、ミリアが新たな結界を展開する。
悠真は剣を握りしめ、霧の向こうを睨んだ。
恐怖は確かにある。だが、それ以上に――守りたいものがあった。
「……ここで逃げたら、誰も守れねえ」
ミリアが前に出て、光の紋章を描く。
「私が前に立つ。絶対に――誰も死なせない!」
結界が輝きを増し、霧が渦を巻く。
その向こうで、光と闇がぶつかり合った。
街の中心が、戦場に変わる。
しかし、誰も退かなかった。
悠真は霧の向こうに見えた無数の影を見つめ、静かに呟く。
「……来いよ、黒衣ども。こっちは、負けねぇ」
クリスティアが微笑み、杖を掲げる。
金色の光が広がり、霧を裂くように街を照らした。
――そして、戦いの幕が上がる。
霧の奥で、誰かの笑い声が響いた。
「ようやく目覚めたか、異界の欠片……」
悠真の背筋が凍る。
それが“教団の教祖”と呼ばれる存在の第一声だったと、彼が知るのは――まだ先の話。
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