第二話




 機内アナウンスが聞こえ、ベルト装着のマークが消えた。電子機器も使用可能となり、エドワードはスマートフォンを取り出す。ロックを解除しようとしたところでふと動きをとめ、結局、元の通り画面を切った。再びスーツのポケットにしまい、隣の同乗者に目を向ける。


 カーティスは窓際の席で、覆いを下ろしたまま眠っている。首はこちらに傾いていてその寝顔が窺えた。さらさらとした黒髪に、今は見えない真っ青な猫目。全てが過不足なく調った、人形的な——無性的な面差し。


 美しい、と素直に思う。同時に、いまだにその顔のうえに、幼少の面影を見つめている自分に気づく。


 余計な回想をする前に、エドワードは目を逸らした。眼前のモニターを眺め、映画でも観るかと考える。余談だがエドワードの映画の趣味は最悪で、ウケ狙いでも悪ふざけでもない〝純粋な〟クソ映画を好む。つまり、関わる人全員がみんな真面目にがんばったのにどうしようもなくダメな作品がいいのだ。そんなものが機内映画のラインナップにあるはずがないが、「良い映画」を観ると落ち込むので慎重に選ばなければならない。


 画面に触れ、映画のページへ進む。読み込みに少し時間がかかる。一瞬のフリーズのあと、やがて、ラインナップが表示される。


 その瞬間。横から声がした。


「僕、これがいい」


 細い指先が、画面の端に触れている。


 背筋が、凍った。なぜならば、それはカーティスの声であり——彼が眠っているのとは反対側から、聞こえてきたから。


 ゆっくりと、そちらを振り向く。幼い頃から知る顔と、全く同じ顔がある。ついさっきまで、そこにはふくよかな中年男性が座っていたはずだ。だが今は異様に青いキャットアイを瞬かせ、黒いキャミソールとデニムを身に着けた若者が座っている。キャミソールにはラインストーンで文字が書かれている——Safe travels.


 何の冗談だ?


「やあ、……クイーン」


 胸中の強張りを隠し、エドワードは笑みを作った。そいつは首を傾けて、青すぎるほど青い瞳を上目遣いにしてから、細める。


「……ハイ、ダーリン」


 からかうような響き。その目は、ほのかな悪意にきらめいている。


     ◆


 ミオリに呼び出されたあの日、拒否権がないと聞かされて、エドワードは覚悟を決めた。どちらか片方というわけではなく二人ともに降りかかるなら、それがどんな辞令であれ受容できる——だがそのあとに続いた話は、エドワードの想像の範疇を、はるかに超えていた。


「なぜ君たちなのか。それは、二つめの指令に理由がある」


 あの日、勤続以来初めて「躊躇」を見せながらミオリが話し出すと、思いもしないから、横槍の声が上がった。


「もう、まどろっこしいなあ。僕に説明させてくれる?」


 ぎょっとした。その声は——隣にいるはずの相棒と全く同じ声質で、聞いたこともないトーンでもって、相棒が立っているのとはてんで関係ない方向からいきなり響いてきたからだ。弾かれたようにそちらを向くと、さすがに、——心臓が止まった気がした。


 見間違いようのない姿。黒く、大きく広がった翼。


 そこにいたのは、相棒だった。彼と全く同じ顔、全く同じ背格好で——黒い四枚の翼を生やした、似ても似つかぬ出で立ちの。


 大きな翼の、表面の羽が、空調の風に吹かれている。……現実なのは確かなのに、特殊効果VFXでも観ているようだ。


「ビックリしちゃった?」


 そいつは棒付きキャンディを口から取り出しながら言った。答えようとして、喉が張り付いていることに気づく。


 動揺している。まあ、当たり前だ——エドワードは暫時、目を閉じ、混乱を封じる努力をした。少しだけ時間が要ったが、それは上手くいった。……再び目を開けて、そいつを見据える。


 声も顔も、体型も、ほとんど彼と同じだが、話し方と服装のせいかそいつのほうは女性に見える。クロップドの小さなTシャツに丈の短いタータンスカート、シアーのハイソックス、ハイカットのコンバース——カーティスも私服は割合華やかなタイプだが、ここまで大胆ではない。


「……君は、一体?」


 声が掠れないように注意深く尋ねると、彼女は笑みを深くした。


「『一体』? それってどういうこと? 君は僕の何が知りたいの?」

「…………」

「……ふふ、ごめん。イジワルしちゃった。君がいちばん訊きたいのはさ、ってことでしょ?」


 彼女は指をパチンと鳴らした。手の中のキャンディが、黒い霧となって宙に溶ける。


「……でもそれは、言えないの。ゴメンネ」


 エドワードは不意に、隣のカーティスが心配になった。そこに今まで気が回らなかったとは、やはり平時の通りではない——いきなり自分と全く同じ見た目の生き物が現れて、パニックになっていないだろうか? 己でさえ強く動じたのだ。


 だがまもなく、エドワードは、人の心配をしている場合ではなかったと、悟ることになる。


「……あ、……え?」


 隣から、そんな声が漏れ出た。心配が的中したのかとエドワードが彼の顔を見ると、彼は意外にも、〝彼女〟がいるのとは正反対の方向を見ている。


 途端、重力が強まるように、強烈に嫌な予感がした。動きたがらない身体に命じて、なんとか、視線の先を見る。


 ……信じられない景色だったが、一方でどこか予想もしていた。だから目に入ったとき、驚くというより、へたり込みそうになった。


 そこには、が座っていた——同じ顔、同じ体躯で、白い四枚の翼を生やした——ひどく、不機嫌そうな自分が。


     ◆


「……席にいた人は?」


 訊かないわけにはいかないので、エドワードは尋ねた。彼女はいつの間にやら手に持っていた蓋付きカップのストローを摘んで、目を丸くする。


「え。人って?」

「ほら。その席、別の人が座っていたでしょう」

「ああ、消したよ。僕が座れないもの」


 エドワードは表情を変えなかった——はずだ。だが、彼女は何かしら読み取ったのか、ああ、と再び声をあげる。


「殺してないよ。ただちょっと、『今この世にはいない』だけ」

「……戻せるんだね?」

「もちろん」

「……そう」

「ねえ。それより、映画を観よう? 僕はこれがいい。君は? どう?」


 改めて画面を見る。彼女が指差していたのは、スプラッタもののホラー作品だった。別段好みというわけじゃないが、少なくとも鑑賞後に気が沈むことはなさそうだ。そんなことを思っているうちに、隣の彼女はエドワードの腕を取り、しなだれかかってくる。手に持っているカップからほのかにコーラの香りがした。


「……いいよ。これにしよう」

「イヤホンを分け合う?」

「君の座席のジャックに挿して、同時に再生するのはどう?」

「うーん。とっても合理的だけど、それって全然セクシーじゃない」


 なんとなく口をつぐむと、彼女は上目にエドワードを見つめた。


「いいでしょ? どうせ真剣に、観るつもりなんかないのだし——」


 そこで一瞬、奥の座席に目を遣り、すぐに戻して首を伸ばす。


 彼女は、——彼と全く同じ、涼やかな声で——耳元に囁く。


「ね? ちょうど……邪魔者も、いないし」


     ◆


 己と瓜二つの存在を前にエドワードがフリーズした瞬間、彼女は唐突に、指をパチンと鳴らした。それに気づいて首を振り向ければ、ちょうど、正面にいたはずのミオリが、その姿を消すところだった。


「何をした!」


 相棒が素早く反応する。彼女の顔に目を移すと、彼女は心底忌々しげにその表情を歪めていた。


「邪魔だからちょっと消しただけでしょ。すぐヒスんないでくれる、鬱陶しい」

「……何なんだ、お前? 消したってどういうことだ」


 カーティスは意外にも動揺していないように見えた。だが幼少期から二〇年近く彼と過ごしてきたエドワードには、その理由も察しがつく。怒っているからだ——彼はキレていると、普段の神経質さから想像できない強度を発揮する。


「だからぁ、『消した』は『消した』なの。お前の理解を超えてるからって説明してやる気とかないから」


 言葉の最後に舌打ちまでした彼女だったが、エドワードを見ると、少し態度を和らげる。


「……あとで戻すから、安心して。一時的に今ちょっと、この世にいないだけだから」

「……ええと、……それって、どういうこと?」

「んー……説明すんのムズいんだけど、どう言おっかなー……」

「座標を変えた」


 視界の外から声があり、今度は反対側に目を向ける。机の上に足を乗せ、心底面倒くさそうに座っていた〝自分〟が、やはり同じような表情でその口を開いていた。


 改めて、うんざりとする。彼のほうは自分と違い、癖毛をそのままにしているようだ——自分だってカーティスに言われるがままシャンプーを買い、トリートメントをするようにしたら、直毛になっただけなのだけど。


「ある存在がある空間、ある時間の交差する『特定の箇所』を占めるためには、常に座標を正しい位置に更新し続ける必要がある。シンプルなシステムだから放っておけば狂うこともないが、逆に言えば干渉するのもそこまで難しいことじゃない。俺らみたいな存在にとっては」

「……ご説明どうも」普段より動きづらい口を無理に動かし、エドワードは会話を試みた。

「初めまして。もしかして君って、僕の生き別れの弟だったり?」

「笑えない。明らかに違うと分かっているのに、わざわざ口にする必要があるか?」


 軽く顔の片側をしかめ、〝自分〟は応えた。……なるほど、こちらの軽口に乗ってはくれないタイプらしい。


 どう接しようか考えていると、向こうは深いため息をついて〝彼女〟へと横目を向ける。


「まず〝タグ〟をつけたほうがいい。でないとコイツらは、状況を整理できない」

「あ、そだね。どんなのがいっかなー……」


 彼女は首を大きく傾け、頬に指を当ててみせた。うーんとつぶやいたあと、思いついたように彼女自身を指差す。


「僕のことは、『クイーン』って呼んで。向こうは『イーグル』」

「なぜお前が決める?」

「別に君、こだわりないでしょ? ほっとくとただの記号にしかねないから、僕がつけてあげたの」


 彼——『イーグル』はかなり不満げだったが、覆すほどのこだわりは実際ないようで、小さく肩をすくめた。女王と鷲——どういう由来なのか不明だが、そこは重要な情報じゃない。


「君たちは、何者なの?……どうして、僕らの前に現れた?」


 キレた時のカートは頼もしいが、話を進めるのには向かない。ひとまずこの場の舵取りをすることにしたエドワードは、消えた上司から聞けなかったことを目の前の二人に尋ねる。


 二人は互いに目を交わし、〝クイーン〟のほうが口を開いた。


「何者っていうのは、君たちには分からないかもね。でもたぶん、『天使』とか、『悪魔』と思えば理解しやすいでしょう。それそのものだとは言わないけど」

「……なるほど。それで、……なぜ僕らに?」

「そうだね。その質問は、定義というか、深度によるけど……まず君たちがこの場へと呼ばれた理由なら、説明できる」


 いよいよ本題か。エドワードは、ふっと息をつき気を引き締めた。心なしか彼女のほうも、不遜な態度を少し収め、真っ青な瞳で見据えてくる。


「君たちがここへ呼ばれたのは、僕たちが、指名したから」

「……指名、……と、いうのは?」

「僕たちは、……人間に力を貸しに来た」


 彼女は、一歩、二歩と進んで、ほっそりした腕を差し伸べた。体格も相棒にそっくりだと思っていたが、こうして見るとひと回り華奢だ。エージェントに、いや刑事になる前。まだ、十代だった頃の——


「ねえ、僕と契約して。僕の手を取ってくれるなら——」


 そう言うと、彼女は——なぜか、どこか泣きそうに目を細めた。


「……人間が滅びないために。少しだけ、味方してあげる」


     ◆


「……分かった」


 エドワードはクイーンに応え、自席のジャックにイヤホンを挿した。絡まり合ったコードを解き、片方をクイーンへ渡す。イヤホンを受け取るとクイーンは喜色満面となり、うきうきと片耳に嵌め、空いた耳を肩口へ寄せた。


 そのつむじを見下ろしながら、エドワードはサムネイルに触れた。制作会社のロゴが表示され、そのあと黒い画面になる。静かな音楽を背景に女性がモノローグを語り始めたとき、ふと、クイーンが囁くように言った。


「でも……この調子だと、いくらも観られないかも」

「え?」

「向こうがさっさと片付けちゃったら、邪魔者が戻ってくるもん」

「……え?」

「君も、案外薄情だよね——それとも、僕に気を取られちゃった?」


 くすぐるようなセリフに、慌てて窓側の席を見る。そこは、もぬけの殻だった。だれもいない——いるはずの人がいない。さっきまで、眠っていたはずの人が。


「カートは!?」

「やだ、大きな声出さないでよ。イーグルと『チュートリアル』中。ぜんぜん無事だから安心して」

「そう言われて、引き下がれると思う?」


 怒りを抑えながら告げると、クイーンはこちらに目を向けた。その表情は白けたようにも、拗ねたようにも受け取れる。


「……ふん、……怒っちゃって。あんなつまんない分からず屋に、ずいぶん必死になるよね」

「そうだね。君が彼をどう思っているかと、僕が彼をどう思っているかは、関係がないから」


 クイーンは、一瞬身構えたあと、ますますもってぶすくれた。それでも引っ付いたままの彼女を見下ろし、エドワードは問う。


「……カートは、今どこに? 何をしている?」


 クイーンはしばらく黙っていたが、やがて、渋々話し出した。


「君が僕の出現にすっかり度肝を抜かれていた頃、この飛行機には低級天使が降臨してたの。あ、『天使』ってのは、君たちに合わせて言ってあげてるだけだから、真に受けないでね」

「それで?」

「……もちろん、ここで天使が暴れたりしたら飛行機なんて墜落なんだけど、それだと僕らが日本に行けない。だから出現した瞬間、イーグルが別座標に飛ばした。で、ちょうどいいからって、カートに相手をさせることにしたの。なにせ契約後に戦うのは初めてでしょ? 試運転しなきゃ」


 エドワードが無言でいると、クイーンは短く息を吐いた。


「見てみる?」


 それからパッと身を離し、素早く指を一つ鳴らす。本編が始まり出していた映画が止まり、酷く乱れ、損傷したビデオを無理やり読み込んだようなノイズが走った。映っているものがまるで判別できないほど激しかったそれは、だんだんと消えて、クリアになる。


 そうして現れたのは、よく知る相棒の横顔だった。


「カート!」

「もう。せっかく二人きりと思ったのに……」


 不満そうに呟くと、クイーンはコーラを音高く啜る。


「どうせなら、愉しませてもらうよ。……よろしく、エージェント・シザーフィールド?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る