Code: MSR

初川遊離

Opening

 騒めきのする方へ、夜の街を抜けていく。はやる気持ちを落ち着けて、息が上がらぬように努め、できうる限りの速歩はやあしで、徐々に増えてくる人混みを縫って。やがて、明らかな人集ひとだかりが視線の先に現れる。店の周囲には規制線が張られ、その外側を取り囲むように、呑気な野次馬、報道機関、手当を受ける被害者、同僚。ディナータイムをまばゆいほどに真白く照らす、テレビカメラのライト。


 ふと、規制線のすぐそばで市民に退去を促していた同僚の一人が、青年を認めた。


「……エージェント・シザーフィールド」


 青年——カーティス・シザーフィールドは、防刃シャツとスラックス、革靴を模したスニーカーという出で立ちで野次馬をすり抜け、規制線を難なくくぐる。音もないその挙動に、一瞬、人々は虚をつかれる。


 そのうちの一人であった同僚もやがて我に返り、カーティスに続いて規制線をくぐった。ふたりは、店の入り口へ向かう。


「おつかれさまです」

「君もな。状況は?」

「市民の退避は完了してます——まあ、ですが」

「規制結界が張られているだけ立派だよ。ありがとう」

「確実ですか?」

「何が?」

「……つまり、……その。貴方が、対処をすべきような?」


 カーティスは一度足を止め、自分よりやや背の低い同僚を見下ろす。


「……見たんじゃないのか」

「……ほんの、チラッとしか……」

「幸運だな。メンタルケアの休務期間を挟まなくて済みそうだ」

「確かに、……人間の仕業では、なさそうだとは、……思いましたけど」


 カーティスは首を振り向けて、目の前のガラスドアを見つめる。


 町に佇む、小さな酒屋だ。店内の照明は落とされているが、カーティスの目——それは微かな明かりも拾って発光するほど異様に青い——に、店内はある程度見える。電球がいくつか割れていて、棚が派手に倒れている。散乱するガラスと酒で床の状態はかなり悪い。そして反対側の壁に、叩きつけられた痕がある——全面に飛び散る血痕と、すぐ下の床に落ちた、死体が。


 本案件は数キロメートル先の路上での「顕現」に始まり、対象が五人の被害者を出したあと一人の成人男性の足首を掴んで街を引きずり、酒屋に飛び込んだところで膠着こうちゃくした。「顕現」から膠着までは僅か四十五分で為され、その「封じ込め」の立役者が、耳に嵌めたインカムからカーティスに話しかけてくる。


『やあカート。ご到着かな?』

「GPSで見えてるだろ。いま店の入り口に立ってる」

『オッケー。その店、入り口が外に出っ張ってるんだ。入り口を避けたキワキワに結界を張ってあるから、マシンの起動は店に入ってからで』

「了解。対象の情報は?」

『んー、まあ、いつも通りのバケモンだね。知能程度は「猟犬」、破壊能力は重火器相当。X線は通ってて、心臓に相当すると見られる器官はあったけど、脳はない。詳しくは送った画像を。誘導が利いたから感覚器は少なくともある、視界の仕組みはちょっと不明だけど、聴覚と臭覚については人間と大きく違わない。超音波も拾うんで、空間把握は耳でしてるかも——器官としての耳かはともかく』

「速さは?」

『そうね、F1カーくらい』


 返答に、少し詰まる。口を開く前に、カーティスはため息を吐いた。


「……肉眼で見えるだけマシか」

『ウーン。そう思ってもらうしかないかも!』


 ドアノブに利き手を掛けながら、カーティスは自身の左手に目を遣る。腕時計の大きな盤に電子情報が映し出された。該当の画像が現れると、思わず鋭い舌打ちが出る——デカブツのくせにちゃちな心臓——コイツを一発で貫けなければ、神の御許へ直行便だ。


「ハコの狭さと向こうの速度を考えるに、チャンスは一瞬だろう」


 そこで言葉を切り、一呼吸おいてから続ける。


「対象の急所周辺にはひだがあるが……コイツは分厚そうだ。殺るなら隙間を狙うしかない。俺は刺突武器がベストと見た、お前は?」

『同意する。長さは?』

「イメージできてる」

『オーケイ。他に、僕にできることは?」


 カーティスは考えてから、肩をすくめる。


「そうだな。これが最期の会話にならないよう、祈っててくれ」


 軽口と本音をないまぜに告げると、珍しく間が空いた。ややあって、彼は言う。


『——誰に?』


 それも、そうだ。使、生き残ることを誰に祈ればいい?


「……じゃあ、……」


 カーティスは答えながら、店のドアを引いた。


「……俺に」


 店内へ歩を進め、ゆっくりと、ドアを閉める。改めて腕時計に目を遣り、ディスプレイの周囲を覆うステンレスの枠を右へ回した。三十度ほど回したところでカチリと嵌まる音がして、次の瞬間、青みを帯びた、淡く光る液状のオーラが空間へ流れ出る。それはカーティスの右手の動きに従い、細く鋭い剣——スティレットを形作る。


 やがてオーラが硬質化し、カーティスは淡く青く輝く短剣を握り締めた。足元を見ると、結界を作る特殊なくさびが確認できる。規制線のデザインを模したテープはあくまで廉価版で、基本的にはその場しのぎか僅かな足止めにしか使えない。本気で閉じ込めようと思えば楔を打って張る必要がある——覗くように視線を上げると、暗闇に相手の姿が見える。戸外からの、そしてカーティスの武器の光を反射して、仄白く、浮かんでいる。


 異形。


 それは天井に曲げた頭部を押し付け、突っえるように立っている。かろうじて人型ではあるが、人のようにはとても見えない——細長い脂肪の塊に、異常に増殖した細胞が得体の知れない部位を生やして、青白い皮膚はその下の腫瘍でボコボコ浮き出ている。かろうじて四肢に近いものはあるが、脚部は人によく似ているくせ本数が五、六本余計で、腕部は鞭のように長い、これが恐らく身を裂く速度でまず振るわれることだろう——あるいは、そのまま飛び込んでくるか。胸の辺りにはひだがあり、恐らくエラに近い構造で、呼吸もそこからしているようだ。X線によれば骨はないが、垂れ下がっているあのひだは恐らく刃が通らない。覆いの隙間を突き上げるように、斜め上に刃を差し込むしかない。結界内に足を踏み入れれば、ほんの一瞬で、全てが決まる。


 大きく肺を膨らませ、その息をじっくりと吐く。水晶体ディスプレイに画像を映し、目の前の異形と重ねる。心臓の位置を、何度も確かめる。イメージする——イメージする——イメージ。


 何の疑いもなくなるまで。


 最後に、瞬きをして、カーティスはディスプレイを切った。実際に動く場合には、ガイドはないほうが正確に動ける。


 スティレットを胸に当て、自身の心臓の鼓動を感じる。大丈夫——落ち着いている。頭の中も凪いでいる。


 カーティスは、一歩、足を踏み出した。身体が結界の中へ入る。顔を持たない異形が、確かにこちらを向いた、と感じる。視線が合う、——ほんの刹那の


 地を、蹴る。音の追いつかぬ速度で、異形の腕が大きくしなる。


 ——脳裏に見えたのは湖だった。鏡のような、静止した、水面みなも


     ◆


 カーティスが店から出てくると、心配そうに待っていた例の同僚が真っ青になった。慌てて駆け寄ってくるのを手で制する。


「タオルをくれ。……ぜんぶ返り血だ」


 ついでに店内が地獄絵図であることも伝えた——今のカーティスと同じぐらいに、全身血みどろの赤ずくめ。まさか心臓を刺した瞬間、破裂するとは思わなかった。彼らは生態もバラバラだが死に様も千差万別らしい。


『とんだ赤ずきんだね』


 インカムから声が聞こえた。防水とはいえ、よく無事だったものだ。


「最悪だ。豚小屋の匂いがする」

『お気の毒さま。ドン底のところ悪いんだけど、このあとまだ仕事があってね』


 聞こえてきたセリフにぎょっとする。冗談だろ——このうえ何を?


「勘弁してくれ! 命のやり取りなんか日に一回で十分だ」

『大丈夫——ただのミーティングだから。でもまあ、……外せないらしい』


 実に言いにくそうに彼はいう。カーティスは、自分でも渋面になっていくのがわかった。通信の相手もモニター越しに、きっと苦笑いしているだろう。


 視線の先では同僚が、タオルを持って近づいてくる。顔を流れる大量の血を一度手で払い、カーティスは訊いた。


「……このままでも、許される相手?」


 またも言いにくいことを言うように、通信相手はそっと呟く。


『その状態を許容する人は——そうだな。僕がギリなんじゃない?』



     ◇



 本部へ戻りシャワーを浴びて、代えのスーツに着替える。スニーカーはたまたまワンサイズ上の予備しか置いてなかったので、靴のなかで指を遊ばせながら会議室へと向かう。途中、長身を壁にもたせかけ、先の通信相手が待っていた。首から上を少しかがめて、手元の機器をいじっている。


 通信相手——エドワードは二メートル近い身長と頼もしい体躯、甘いマスク、金髪碧眼の持ち主だ。雄々しさと涼やかさを両立したその出で立ちは、ある種の〝ファンタジー〟というところ——まあその〝夢〟なり〝幻想〟なりは誰が見ているのかといえば、当然、本人じゃないのだが。


 カーティスが靴音を立てると、彼は顔を上げ笑ってみせた。特に言及しなかったが、カーティスは肩をすくめたくなった。音なんか立てる前から、どうせ気がついていたくせに。


「おつかれさま。今日も大活躍だね」

「スレスレの綱渡りを危うく成功させているだけで、活躍なんて実感もないけど」

「適合者が増えるといいんだけどね——市井にはいるんだろうが、お役所仕事の給料でこんなこと誰がやるのやら」


 戦闘時にはつけていなかったネクタイに手を遣り、カーティスは答える。


「政府もそろそろ給与アップを考えるだろ、……俺が死ぬ頃には」


 最初の「天使」の顕現は、今から五年前の話。


 もっとも、それがこれまで宗教的に信じられてきた「天使」そのものであるのかは、未だ不明だ。少なくとも政府は異なる存在と見ている(だから公的に彼らが「天使」と呼称されたことは一度もない)。あの悪夢的造形の異形が「天使」と呼ばれ始めたのは、何よりも最初の「天使」が聖書通りの熾天使の姿をしていたということが大きい。ただ、最初に顕現したそれは、かなり能力と知能の高い個体だったと推測されている。要するに人間社会の混乱を招くため、聖書の内容を読み取って姿を寄せてきた恐れがある。


 相手の正体は一切不明で、その目的もまるで分からない。何にせよ現生人類に対し、極度に敵対的なのは確かだ。


 出現の予想もつかない異形により、罪のない人々が惨殺され続けていたある日、各国政府は突然に、政府機関——特に実働部隊——の人員に「テスト」をし始めた。それはこれまで存在を確認されていなかったエネルギー(または物質)との適合テストで、残念ながらカーティスは、トップクラスの結果を出した。


 政府はそれを「エーテル」と名付けた。エーテルはこれまでも地球上に存在していたが、と説明された。正直、さっぱり意味がわからない——ただとりあえず、カーティスはそのエネルギーに触れ、実体化させ、思うままに変化させる「適性」を持っていた。おかげさまで、明日の命も知れぬ悲劇的ヒロイックな身の上になった。


 カーティスが言った皮肉に、エドワードは黙っていた。いろいろ言いたいことはあるようだが、少なくともカーティスの見立てに異論はないということだろう。それこそカーティスのをもってようやく改善に乗り出すくらいが関の山だと思われる——自分でも、なぜ逃げ出さないか不思議だ。


「それにしても、ずいぶん急だな。事案後くらいは最低限の配慮をする組織と思っていたが」

「特例ではあるんじゃない? 僕もカートを休ませてあげてよって言ったんだけど、今日は無理だってすげない返事で」

「……重要事項なのは間違いなしか」

「そうだね。……あーやだ、何言われんだろ?」


 会議室の前に来て、どちらからともなく足が止まる。互いに視線を交わし合い、エドワードがドアを叩いた。上司の返答が聞こえ、ふたりして小さなため息を吐いてから、ドアを開ける。


「お二人とも、ごくろうさん」


 ドアの先では、二人の上長——ミオリ・セヴァリーが、手をひらひらとさせていた。


 二人は部屋に入り、ドアを閉じる。会議室を指定されたのに、場にはミオリしかいなかった——長机を四つ繋げて作った直方体の一番奥、中央の席に腰掛けている。これならただ彼女の執務室に呼び出すだけでよかったのでは?——だがミオリは細かい説明をするつもりはないようで、いつもの通り極端なまでの作り笑いで口を開く。


「おつかれだろうから簡潔に言うね。君たちに二つ指令があります」


 これもまたいつものことだが、明るい割に有無を言わせぬ調子——ミオリはそのまま、細い人差し指を立てた。そして、ゆっくりと、朗らかに、告げる。


「まずひとつ。君たちには……日本に転勤してもらいます」


 日本?


 一瞬——ぴたりと思考が止まった。それでも口が勝手に回るタイプであるエドワードが、隣で復唱する。


「……ニホン?」

「そう。ニホン」

「日本って、時差がプラス八時間の?」

「そう。渡航に十三時間の」

「同じ島国の?」

「そう。立憲君主制の」

「いや、日本は——」


 思わず口を挟むと、ミオリが大げさに目を丸くする。


「実質的には同じだろう? うちの国王とどう違うのさ」


 制度や扱いには仔細に差があるがそう言われるとそうな気もする。つい引き下がりそうになり、問題はそこでないことに気づいた。


「……いや、別に! 日本がどこだかは分かってますよ」


 ミオリが、わざとらしく首を傾げる。緊張が喉を狭めるのを感じながら、カーティスは尋ねた。


「……なぜ、日本に?」


 ミオリは、笑んだまま答えない。


 冷や汗が背筋を伝う。同じような表情をしたエドワードが、おずおずと手を挙げる。


「……拒否権は?」

「ない」


 あくまでも笑みのまま、刃物のように彼女は答える。冷たく、身を切る鋭さ。


「……じゃあ」


 唇が少し震え、それをぐっと呑むためにカーティスは強く口を結んだ。もはや笑みのない彼女の目が、こちらを見据えるのを、見返す。


「……なぜ、……僕たちが?」


 ミオリは、無言でカーティスを見ている。だがその浅い茶色の瞳に、今までと違う何かがよぎった。それは一瞬の出来事で、正体を掴む前に消えてしまう。


「それを、……今から話す。……本当に、気の毒だと思ってる。ただ——」


 ミオリはふと、目を逸らし、幾許かの間を空けた。


 彼女が言葉をためらうところを、初めて見た。


「……拒否権は、ないんだ」


 彼女の揺れと裏腹に、二人は、落ち着き始めていた——どうしようもない運命が、この世にあることは、もう知っている。

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