【第2話 夜間工事:星空の配管】
黒い馬車の話を聞いた夕方、俺たちは丘に登って谷全体を見下ろした。リサは目を細め、虹彩の奥で淡い色を転がす。
「街道沿い、二つ“濃い”点がある。ひとつは小橋の下、もうひとつは街道標の根元」
「原因は?」
「橋の下は、古い導水管が詰まってる。標のほうは“目”。人の目。……神殿の見張り石が埋めてある。通る者の“色”を拾う仕掛け」
「巫女を探してる目か」
リサは小さく頷いた。
「わたし、その目に映ると、色が騒ぐ。すぐ連絡が飛ぶ」
「なるほど。なら、橋は開通、目は目隠しだな」
日が落ち、空に最初の星が点るころ、俺は工具袋を背負い直した。
「計画は三本立て。ひとつ、橋の下の導水管を通す。ふたつ、街道標の“目”を合法的に無効化。みっつ、馬車への小さな足止め」
「三つ目、悪いこと?」
「悪くはない。正しい手続きで、ちょっとだけ面倒にする」
月が雲に隠れ、視線が散る。世界が俺のために静まる時間だ。
◇
最初の現場は小橋の下。川幅は狭いが、流れが妙に淀んでいる。橋脚の根元に古びた木筒——導水管が半ば泥に呑まれていた。
音を立てないように泥を掃き、木筒の継ぎ手を探る。工具袋から薄い楔を取り出し、腐った箇所を外す。リサが小声で案内する。
「左、色が薄くなる。そこ、空洞」
指示どおりに触れると、確かに手応えが違う。空洞を渡して新しい竹管を差し込む。竹の節を落とし、接合部に獣脂と灰を練った目止めを塗る。
夜風が一度だけ強く吹き、雲が月をかすめた。その瞬間、加護が背中を押し、動きが一段軽くなる。楔が滑りこみ、継ぎ目が「そこだ」と言うみたいに吸い付いた。
数呼吸ののち、管の奥から押し出されるように水の音が変わる。細い、しかし確かな流れ——詰まりが解けた。
「星空、配管完了」
リサがくすっと笑う。
「あなた、たまに詩人」
橋は夜のうちに喉の詰まりを解決した。朝には流れが楽になる。次は街道標だ。
◇
街道標は、人の背ほどの高さ。根元に青黒い石が埋めてある。リサの“見通す眼”には、その石から薄い糸が空へ伸びているように見えるらしい。
「“目”は、完全に壊すと、逆に騒ぐ。規約に沿って“休止”させるのが安全」
「規約?」
「神殿の道具にも、運用規約がある。書いたの、昔の賢者。悪用されないように――“公的な工事区域に指定された場合、監視石は自動休止”」
「なるほど。じゃあ——」
俺は街道標から十歩ほど下がり、杭を打つ位置に小さな印を付けた。携行の縄と木板で、臨時の工事柵を組む。柵と標の間に、先ほど通した導水管の図面(簡略だが要件を満たす)を掲示。
もちろん、真っ当にやるには署名と押印が必要だ。村の長に夜のうちに事情を話し、軽便工事の許可を仮押印でもらってある。
板に墨で大書する。
《臨時工事区域:導水管補修および路肩保全——夜間作業につき通行注意》
最後に、柵から柵へ麻縄を渡し、小さな鈴を吊るした。風鈴より控えめな音色。夜風に揺れて、規約どおりの“工事区域”が成立する。
リサが目を凝らす。
「糸が……ほどけた。目が眠った」
「規約は偉い」
これでリサは安全にこの街道を渡れる。残るは黒い馬車への少しの足止めだ。
◇
黒い馬車は月が天頂を越える少し前に来た。車体に神殿の紋章。轅(ながえ)を引く黒馬はよく鍛えられている。御者台の影に、槍を持った護衛が二人。
馬車は柵の前で止まり、御者が舌打ち混じりに吐き捨てる。
「なんだこれは。誰の指示だ」
俺は柵の向こうから、控えめに板を指した。
「工事区域です。導水管の補修。朝までには終わります」
「夜に工事? 通行の妨げだ」
「申し訳ない。日中は人が多く、危険ですので」
御者が襟をいらついた指で弾く。護衛のひとりが標を蹴ろうとしたが、もうひとりが腕を押さえた。
「神殿の規約に引っかかる」
現場で規約を思い出してくれるのは助かる。
御者は遠回りを示す迂回路の板を睨み、渋い顔をした。
「橋の下流の浅瀬を渡る。……護衛、確認に行け」
よし、来た。
浅瀬は渡れる。昼間なら。今は夜。俺はさっき、橋の下の詰まりを解いた。つまり、流れに勢いが出ている。
護衛が松明を掲げ、浅瀬に足を入れた。水が膝に当たった瞬間、顔が歪む。
「速い。馬車は危険だ」
御者が舌打ちをもう一度。
「夜明けを待つしかないか……」
彼は渋々と手綱を引き、馬車を柵から少し離れたところに退避させた。
俺は会釈して、柵の向こうで仕事をしているふりを続けた。実際、している。路肩の崩れかけた部分に小石を詰め、泥のすべりを抑える。
男たちの視線は時折こちらへ向くが、灯りの明滅と夜風がそれを散らす。加護が肩を撫でる。見られていない。俺は音を殺し、必要なぶんだけ地面を整え、必要なぶんだけ存在感を薄くする。
リサは工事柵の陰で毛布に包まり、目を閉じていた。時おり、虹彩が浅く揺れては止む。
「眠ってるか?」と囁くと、薄く笑って「見てない」と返ってきた。器用なやつだ。
◇
夜明け前、東の空が薄く白み始めたころ、馬車の御者がしびれを切らして声を張った。
「おい、工事の者! 夜明けだ。通してくれ。神殿の急用だ」
「工事の者」と呼ばれたのは初だ。悪くない肩書きだな。
「了解しました。板と柵を外します。——ただし、安全確認のため、重量物通行票の記入をお願いします」
御者が眉をひそめる。
「なんだそれは」
「迂回路を使わず、工事区域を通行する場合の標準手続きです。路面破損時の責任分界を明確にするため、車輪幅、軸重、積載物の種類……」
「面倒だ」
「簡易版もあります。こちらに署名だけでも。神殿規約にも準拠」
“神殿規約”の四文字は便利な合言葉だ。御者は吐息を長くして、鞄から羽根ペンを出した。
俺は板を渡し、必要項目だけに丸をつける。御者はぶつぶつ言いながらも空欄を埋め、最後に紋章入りの印を押した。
受け取って、にっこり微笑む。
「ありがとうございます」
この紙が何になるかって? 通行記録だ。誰が、いつ、何を積んで、どの規約のもとに通ったか。あとで役に立つことがある。たいてい、役に立つ。
柵を外す。鈴が最後に小さく鳴って、風だけが残る。
馬車が通り抜け、俺は会釈した。御者は鼻で笑い、鞭を鳴らして去っていく。
通り過ぎざま、馬車の窓の隙間から微かな影が覗いた。人影。……視線が、こちらに向いた気がした。
リサが袖をつまむ。
「見られた?」
「窓の向こうは暗い。俺はただの工事人。見られていないうちだ」
馬車の轍が遠ざかるのを待って、俺たちは柵と板を片づけた。柵は束ねて村に返す。掲示板の図面は、工事が済んだ証として簡略図の上に「復旧済」の一行を添えた。
東の空が明るくなり、鳥が鳴きはじめる。リサが軽く伸びをした。
「ありがとう。わたし、色を荒らさずに通れた」
「規約と工事の勝利だ」
「あなた、ほんとに“静かに強い”ね」
「静かにしか強くないとも言う」
◇
村に戻ると、昨日の祭りの余韻がまだ漂っていた。魚は焼かれ、子どもは早起きして川べりで騒いでいる。
そこへ、昨日のギルド使いが青い顔で駆けてきた。
「おい、新参! 書式が……完璧だ! 罰金免除の申請が通っちまった! こんな速度、前例が……」
「よかったですね」
「よくない! いや、よいのか? 上からは褒められたが……くっ」
使いは頭を掻きむしり、ふと俺の手元を見た。昨日の通行票が、板に綴じられている。
「それは?」
「通行記録。夜間工事区域を通行した車両の」
「見せろ」
俺は無言で板を返した。使いは目を通し、口を開ける。
「神殿……? この路を……? しかも自ら規約に従って通行申請に署名……?」
眉間にしわが寄り、次の瞬間には笑っていた。
「これは——いろいろ使える。いや、使わせてくれ。ギルドと神殿で揉めた時、これ以上なく効く」
「原本はギルドに。写しはこっちに」
「交渉慣れしてやがる……!」
リサが袖口で口元を隠し、笑いをこらえている。
使いは板を抱えたまま、走って行った。
「小さなざまぁ、二件目」
「ざまぁっていうか、条文ざまぁ」
「いちばん平和的なやつだ」
◇
昼過ぎ、丘の上に座って、俺たちは村を眺めた。水はいい音で流れ、畑の土は黒く輝く。
リサがぽつりと言う。
「わたし、逃げてばかりだった。神殿では“色を見る眼”として扱われて、考えを言うたび“余計な色”って言われた」
「余計な色、いい色じゃないか」
「いいの?」
「色が同じだけの世界は、退屈だ」
リサはしばらく黙って、それから笑った。
「じゃあ、余計を増やそう。静かに、でも確実に」
黒い馬車は通り過ぎた。けれど、神殿はここで終わらないだろう。規約を読みこなす者もいれば、規約をねじ曲げる者もいる。
俺は夜空を見上げる。細い雲が星をとぎれとぎれに隠す。
見られていない時間は、いずれ減る。評判が立ち、人が寄る。世界を救うなんて言葉は大げさだが、問題は向こうからやってきた。
なら、やることは変わらない。手を動かし、道を通し、紙を整える。静かに強く、必要なら派手さは星の数だけ夜に預けて。
夕暮れ、村の長が酒瓶を持って現れた。
「兄ちゃん、今夜も頼みがある。北の丘で、古い祠が傾いておってな。祭りの前に直したい」
俺は頷く。リサが目を細める。
「祠、色が濃い。たぶん、そこから“穴”が広がってる」
「穴?」
「世界に開く小さなほころび。放っておくと、大きくなる」
「よし。夜間工事:祠の心棒だ」
のんびり暮らす、は今日も予定にない。けれど、予定表の空白は嫌いじゃない。好きに埋められるから。
――
次話予告:『祠の心棒:無音の修繕』——祭りの太鼓が鳴る前に、傾いた祠を一本の棒で支える。神殿の使いは二度目の来訪。規約と信仰の隙間を、静かに通り抜ける。
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