第1章
第1話 ブラックコーヒーが似合わないあの子
――キーンコーンカーンコーン。
放課後のチャイムが鳴り終わると、俺はすぐに学校を出た。向かう先は、通っている高校からほど近いコンビニエンスストアだ。
キキィ――ッ。
銀色のところどころ傷の入った自転車のブレーキ音が静かな住宅街に響く。
俺はそのまま店の裏口へ回り、慣れた手つきでドアを開けた。
「おはよう
「おはようございます、店長。今日もよろしくお願いします」
いつものように軽いあいさつを交わすと、俺は鞄をロッカーに押し込み、青いエプロンの紐を結ぶ。
時計の針は十六時五十八分。あと五分でシフトが始まる。
俺の名前は
うちは母子家庭で、俺は東京の大学進学を目指している。将来必要な学費などのお金も、ある程度は自分でどうにかしなきゃいけない。
だから俺は放課後はいつも、このコンビニでアルバイトをしている。
シフトは十七時半から二十一時半までの四時間。仕事内容はレジ打ち、品出し、掃除など。細かいことで言えば他にも多岐に渡るが、それが俺の一日の大半だ。
ウィーガシャン! とタイムカードを打刻して俺は連絡帳にさらりと目を通していく。
家に帰ってからも勉強は欠かさない。遊ぶ時間なんてほとんどないけれど、それを苦に感じたことは一度もない。自分のやりたいことのための犠牲なら、喜んで払う。俺はそういう性分なのだ。
コンビニに来るお客さんは、夕方は学生。十九時を過ぎると会社帰りのサラリーマンが増え、二十一時前には常連の顔がちらほらとまばらになり、客数は落ちていく。
夜が深まるにつれて青白い蛍光灯の下、バーコードの「ピッ」という音とドアのチャイムが、夜のリズムのように繰り返される。
いつものように品出しを終えてレジに戻ると、自動ドアの軽快な開閉音が鳴った。
~♪
入ってきたのは、ふわりとした今どきの空気をまとった女の子だった。グレーのスウェットのセットアップ。肩が落ちるドロップショルダーに白いスニーカー。髪は下ろしていて、前髪が少しだけ目にかかっている。片耳にイヤホンをつけていて、どこか楽しげな表情に見えた。
あとこれは余計なお世話だが、顔立ちもいい。けれど、作り込んだ感じではなく――ゆるやかな自然さがあった。
「いらっしゃいませ」
俺はいつもの声で迎えると、彼女は奥のドリンクコーナーへ向かう。缶のブラックコーヒーを一本取り、そのまま文具コーナーで立ち止まる。少し眺めてから、シャープペンの芯と大学ノートを一冊ずつ手に取った。
やがて彼女はレジに来た。
「いらっしゃいませ。袋、おつけしますか?」
「いえ、大丈夫です」
澄んだ声だった。落ち着いていて、小さくて、やわらかい。
俺はレシートを手渡しながら、「ありがとうございました」と言う。彼女は、こちらを見るでもなくだったが――けれど確かに俺へ向けて、小さく「ありがとうございます」と礼を返した。
店を出た彼女は、ガラス越しに見える店外のベンチに腰を下ろした。やがてブラックコーヒーのプルタブを指で弾く。夜風が髪をゆっくり揺らす。その後しばらく、彼女はその場所で缶を傾けていた。
気づけば、俺は彼女の姿に視線を奪われていた。仕事中だぞ――と頭ではわかっているのに、目の奥がベンチの方へ吸い寄せられる。
「吉野くん、前出しお願いできる?」
店長の声に我に返る。
「は、はい!」
俺は少し慌てて指示のあったデザートの棚を整えはじめた。
ちなみに「前出し」というのは、小売業では商品の
その最中、良いのか悪いのか、ちょうどいい角度でガラスに映るベンチの彼女が視界の端に入る。誰とも話すでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ夜の空気を飲むみたいにゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
その夜から、彼女は週に二度か三度、ふらりと現れるようになった。
買うものはほとんど変わらない。ブラックコーヒー一本。たまにシャー芯、消しゴム、ノート。たまにファッション雑誌。会計のときはいつも小さく「ありがとうございます」と言い、ベンチでひと息つく。そして、やはり十分ほどで帰っていく。
俺は彼女がレジに来るたびに、胸のどこかが静かにざわめいた。彼女の面影を、どこかで感じたことがある。そう思うのに、どこで見たのかが出てこない。声にもデジャブを覚える。誰かの声と似ている。けれど、その“誰か”に名前がつかない。
まったく、これが世界史の問題なら、答えを見ればすぐに解決するのに――。ものすごくモヤモヤする!
「吉野くん」
ある日、棚の上を拭いていると、店長が声を落として肩をつついた。俺の視線の先には、いつものベンチと、いつもの彼女。
「最近、あの子が来ると、吉野くんがちょっとソワソワしてる気がするけど。どうかしたかい?」
「あ……すみません。彼女なんですけど、俺どこかで見た気がするんです。声も、聞き覚えがあって。でも、誰だろうって」
「ふむふむ。こりゃあ――一目惚れかい?」
店長は口元だけで笑った。年長者特有のからかいだ。俺は思わず苦笑して、布巾を絞り直す。
「いや、そんな……。ただ、気になって」
「気になるのはいいことさ。人に関心がないより、ずっと。ま、仕事中にお客様を凝視するのはダメだけどね」
「み、見てませんよ!」
「ガラスは正直だよ、吉野くん」
そんな雑談を交わすと、少しだけ気が楽になった。店長は俺の家庭の事情を知っていて、いつも適度な距離で見てくれる。ありがたい大人だ。
その日のシフトは終わった。時間は二十一時半。タイムカードを押して裏口から外に出ると、商店街の街灯が黄色く滲んでいた。
ベンチは空っぽだった。ブラックコーヒーの彼女はもう帰ったらしい。冷えた夜風の中に、わずかな苦い香りだけが残っている気がした。
「やっぱり、どこかで会ってるような気がするんだよなあ」
次に彼女が現れたのは、その二日後。相変わらずスウェット姿で、髪は無造作に下ろしたまま。会計は手早く、礼は短く。ベンチでの時間は、やっぱり、十分ほど。
俺は仕事の手を止めないように気をつけながら――視界の端に、彼女を置いた。置いておきたい、と思った。だが、それと同時に彼女の時間に、俺の視線が混ざってはいけない気もしていた。
* * *
翌日――。
「今日は俺が日直か。えっと、一緒の女子はっと……」
俺は黒板に貼られた日直の当番表に目を通していた。ペアの名前は――『
クラス委員を引き受けている俺は当然、彼女が同じクラスにいることは知っていた。けれど、彼女は決して目立つタイプではない。
彼女はいつも髪を後ろで結び、眼鏡をかけているからか、俺にはやや真面目そうに見える。それに、いつも少し眠たげで、授業中は半分うつらうつらしている。授業が自習等の時は机に伏せってよく眠っているのが印象に残っている。こういう情報を知っているのは俺の右前に彼女の席があるから目に入るからだが、とはいえ俺にはそんな印象しかなかった。
「今日はよろしくね、
放課後――。教室に残ったのは、俺と桜井澪だけだった。モップと黒板消しを手にした彼女が、小さな声で俺に挨拶をしてきた。
眼鏡の奥にある瞳はやっぱり眠そうだ。心なしか声も弱々しい。だけど、その響きに――俺の心臓が少し跳ねた。
(……この声、どこかで)
一瞬、どこかの誰かの記憶と交差するような感覚に襲われる。重なるようで、でも違うようで。頭の中で警報のようなざわめきが鳴るのに、確信には届かない。
「……ああ、よろしく桜井さん」
俺がそう返すと、彼女は黒板消しを持ち替え、黙々と文字を消しはじめた。俺はその姿を視界の端に置きながら、床を濡れたモップで拭く。その最中も耳だけが桜井澪の声を探している。
途中、彼女が背伸びをして黒板の上の方を消そうと右手を伸ばしたとき、右手の甲に黒いインクの走り書きが目に入った。
『数Ⅱ p.142 例題7』
赤いボールペンで直接書いたらしい数字。宿題のページを忘れないように、とっさに書いたのだろう。小さな字が、白い手の甲に並んでいた。
やがて俺たちは、黙々と日直の掃除を終えた。
「よし、これで終わりだね、桜井さん」
「うん」
俺はふと教室の時計に目をやる。
(いっけね! 早く出ないとバイトに遅れる!)
「あ! じゃあ俺、このあとバイトだから! 先いくわ!」
「あ、うん!」
掃除を終え、彼女と別れても、俺はずっとモヤモヤを抱えていた。声の既視感。散らばった点が、どうしても線にならない。
――その夜。
シフトの終わり間際、店長に頼まれてゴミを出しに裏口へ向かった。夜風が冷たく、頬を撫でる。時期は10月上旬。すでに陽も短くなってきて気温も下がってきていた。
「うお、ずいぶん涼しくなったな……」
ゴミ捨て場から戻る途中、ふと目に入った。店の外のベンチに、ひとり腰掛ける影。
グレーのスウェット。白いスニーカー。缶のブラックコーヒーを手に、夜空を見上げている。
「あ……」
思わず声が漏れた。俺の声が聞こえたのか、彼女がこちらを振り向く。
その瞬間――俺の視線が、ブラックコーヒーを持つ彼女の右手の甲に落ちた。
『数Ⅱ p.142 例題7』
息が止まる。今日まで頭の中で渦巻いていた“昼と夜の断片”が、一気に線で繋がった。
「……もしかして、桜井さん!?」
声が裏返るほどの衝撃。桜井澪の肩がびくりと震え、こちらを見て目を細める。
「……え、だれですか? 私いま、メガネを家に置いてきているのであまり細かくは見えてなくって」
なるほど。そういうことか。
「あぁ、えっと……吉野大河って、言ったらわかるかな」
「え! 吉野くん!?」
その瞬間、彼女の目が丸くなった。驚きと、少しの照れが混じった表情で――。
俺たちの時間は、夜の街灯の下で少しの間、止まった。
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