エピローグ 第二話
彩花という最後の希望が消え、わたしは完全に学校に行けなくなった。中学二年生の夏休み前、わたしは、自室に引きこもり、「普通になりたい」という強い願いと、「二度と頑張れない」という恐怖の板挟みになっていた。
そんなわたしの横で、母は、以前とは全く違う行動を取るようになっている。
母は、前はわたしを「普通」に戻すことに執着し、それが叶わないとヒステリーを起こしたり、わたしに無理を強いたりしていた。母の行動の源は、「問題児の親」と見られることへの「体裁」だ。
しかし、わたしが特例校という「不登校児のための最終避難所」でさえ行けなくなって、完全に不登校になってしまった今、母は、その「体裁」を完全に諦めている。
母は昼間、リビングでパソコンに向かい、頻繁にビデオミーティングをするようになった。その相手は、特例校の先生や、不登校に関するカウンセラー、他の不登校の親のグループだった。
「北崎さん、娘さんの亜矢ちゃんの状態ですけど、『退行』が見られますね。無理に登校を促すのは逆効果です」
「そうですね。お母さんが、まず『不登校は悪いことではない』と受け入れることが大切です」
母は、そうした専門家の言葉を、ひたすら吸収していた。そして、わたしを「病気」や「問題」としてではなく、「特別な配慮が必要な状態」として、徹底的に『勉強』するようになったのだ。
母は、わたしに向かって、以前のような焦りの色を消し、穏やかに言う。
「亜矢ちゃん。ママはもう人の目なんて気にしてないのよ。誰にどう思われたっていいじゃない。それよりも、亜矢が元気になってくれることの方が大切なの」
そして、母は続けた。
「だから、亜矢も、外の評価なんて気にしないようにしよう?学校に行けないことを、恥ずかしいと思わなくていいの。あなたは、今、休んでいるだけなんだから」
母の言葉は、一見、わたしを思いやる、優しい言葉だった。わたしが最も恐れていた「体裁」を、母が自ら手放してくれたのだ。
しかし、その言葉が、わたしには、何よりも辛かった。
「体裁なんて気にしないように」
母がそう言うということは、わたしが「普通ではないこと」を、「諦めて受け入れろ」と言っているのと同じだ。母は、わたしが「不登校児」であることを、既成事実として認めてしまったのだ。
わたしが、「普通になりたい」と願い、必死で頑張ったのは、体裁のためではない。
ただ、わたしが普通になりたいだけだ。
友達と笑い合い、教室で学び、将来の夢を語る。その「普通」の人生を、わたし自身の力で手に入れたかったのだ。母の体裁のためでも、誰かの期待のためでもない。
母が「体裁は気にしなくていい」と言うことで、わたしは、「普通になる」という自分の願いさえも、「もう叶わない、諦めないといけない夢」として扱われているように感じた。
わたしは、母の隣で泣きそうになる。母は、「不登校の娘の専門家」としては優秀になったかもしれないけれど、わたしが「普通になりたいと願う、一人の女の子」であることは、理解してくれない。
わたしは、四年生の時、両親が気を遣って用意してくれた、自分の部屋を持っている。広くて、日当たりが良くて、昔はわたしもそこが好きだった。
けれどわたしは、もうその部屋をほぼ使わなくなっていた。
わたしは、一人になりたくなくて、母にしがみつく。
母がソファに座って本を読んでいると、わたしは隣に座ってしまう。母がキッチンで料理をしていると、わたしは、その背後のダイニングテーブルの椅子に座った。
夜、母が寝室に入ると、わたしも自分の部屋に戻るけれど、朝起きると、リビングに出て行く。
わたしは、母に執着している。
学校という「普通」の世界から完全に切り離されたわたしにとって、母との関係は、唯一の「人」との繋がりだった。
わたしは父とも話したいけれど、父は先月単身赴任してしまった。
わたしは、母と父だけは、わたしに何があっても嫌いにならないかもしれないと期待している。
母がリビングにいなくなったら、わたしは、この広大な家の中で、完全に一人になってしまう。その「孤独」が怖くて、わたしは、母の気配があるリビングから、離れることができなかった。
わたしは、自分の部屋という、「自立した個人の空間」を持つことさえ拒否して、母のそばという、「依存の空間」に引きこもることを選んだのだ。
窓の外では、太陽が眩しく輝いている。夏休みが始まり、外では、楽しそうな子供たちの声が聞こえる。
わたしは、その「普通の世界」に入ることも出来なくて、ただ羨むことしか出来ない。
気がつけば周りに友達もいなくて、わたしはもう一人だった。
母は、わたしがリビングに引きこもっていることを、「自室に閉じこもるよりは、良い傾向だ」と、専門家の言葉通りに解釈し、何も言わない。
わたしは、「普通の子」になりたいという願いを、「依存」という形でしか収めることが出来ない。
普通になりたいわたしは、母のそばで、毎日息苦しさに耐えていた。
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