第一章 第八話

家に帰り、母が夕食の準備をしている間、わたしは自分の部屋で、宿題のドリルを広げていた。ドリルに集中しようとするけれど、頭の中は、保健室での孤独と、優子たちの嘲笑でいっぱいで、文字が全く頭に入ってこない。

その時、リビングの電話が鳴った。

母が「誰かな」と苛立ちの混じった声で電話に出る。わたしは、いつものように、受話器から漏れる母の言葉に耳を澄ませた。

「はい、北崎です……あら、萌子ちゃんのお母さん?いつもお世話になっております」

「萌子ちゃん」という名前に、わたしはハッとした。萌子は、近所に住んでいるけれど、通っている小学校が違う、わたしの数少ない友人の一人だ。最後に会ったのは、ゴールデンウィークに入る前だっただろうか。彼女は、わたしの今の「普通じゃない」状況を知らない、唯一の外部の人間だ。

母が受話器をわたしに差し出した。

「亜矢ちゃん、萌子ちゃんだよ。代わって」

わたしは、緊張しながら、受話器を耳に当てた。

「もしもし、萌子?」

「亜矢!久しぶり!元気にしてた?」

萌子の声は、明るく、天真爛漫だった。その声を聞いただけで、わたしの中に、まるで太陽の光が差し込んだような、温かい感情が広がった。優子たちの冷たさや、母のヒステリーとは無縁の、「普通」の世界から届いた声だ。

「うん、元気だよ」

わたしは、反射的に嘘をついた。

「よかった!ね、明日、土曜日でしょ?久しぶりに一緒に遊ばない?うちの近くの公園で、お菓子持って集まろうよ!他の子も何人か来るんだ」

遊びの誘い。

わたしは、胸が熱くなるのを感じた。遊ぶ。みんなと一緒に。優子たちの支配下にない、全く別の世界で、笑って過ごすことができるかもしれない。

「遊んでいたら、少しは、普通の子に見えるかもしれない」

その感覚が、わたしを強く誘った。優子たちの世界から逃げ出し、保健室に閉じこもっているわたしでも、「普通」であると、自分自身に証明できるような気がした。

「うん!行く!行くよ、萌子!」

わたしは、喜びのあまり、すぐに返事をした。

「やった!じゃあ、午後二時にね!楽しみにしてる!」

電話を切った後も、わたしの心臓はドキドキと高鳴っていた。久しぶりの、純粋な「喜び」がわたしの中にいまある。


しかし、その喜びは、すぐに冷たい不安に塗り替えられた。

明日、何を話すのだろう。

萌子たちは、きっとわたしに聞くだろう。「最近、学校どう?」

わたしは、何を答えれば良いのだろう。

「ううん、学校では教室じゃなくて保健室で過ごしてるんだ」

「実は、クラスでいじめられて、逃げちゃったんだ」

そんなこと、口が裂けても言えない。「普通ではないこと」が、たまらなく恥ずかしかった。もし萌子たちに、わたしが「いじめられっ子」で「保健室登校の子」だと知られたら、彼女たちもわたしから離れていってしまうのではないか。わたしは、「壊れたもの」だと思われたくない。

嘘をつこう。そう思った。

うん、学校楽しいよと。けれど、嘘をつくことも、また気が引けた。優子たちのことで、散々嘘をついてきた自分は、もう嘘つきになりたくなかった。

わたしは、意を決して、リビングにいる母に相談に行った。

「ママ……明日、萌子と遊ぶことになったんだけど」

母は、嬉しそうに微笑んだ。優しい母のままだ。

「いいじゃない、楽しんできなさい。たまには外で遊ばないと」

「うん、でもね……。もし、萌子に『学校どう?』って聞かれたら、どうしよう……」

母は、フライパンから手を離し、わたしを見た。

「どうするって、どういうこと?保健室で過ごしていることは、隠す必要なんてないでしょう?」

「え……?」

「いい?亜矢ちゃん。亜矢ちゃんは別に悪いことをしているわけじゃない。いじめている子たちのせいで、心と体を休ませているだけなんだよ。正直に言えばいいじゃない。『ちょっと疲れてるから、保健室で休んでいるんだ』って。堂々としていれば、誰も何も言わないとおもうよ」

母の言葉は、正論だった。わたしの正当性を守ってくれる言葉だった。しかし、わたしには、それが全く響かない。

正直に言う。そんなことをしたら、萌子たちの目が変わってしまう。「普通じゃない子」として、憐れみや好奇の目で見られるのが、たまらなく怖かった。わたしが欲しいのは、憐れみではなく、「わたしもあなたたちと同じだ」という承認だった。

母は、正直に言えばいいと言ったけれど、もしわたしが「正直に言うのは怖い」と正直に言ったら、母はまた苛立ち、ヒステリックな母に戻ってしまう気がした。

「なんでそんなことまで気にするの!馬鹿じゃないの!」

わたしは、母の優しい笑顔を壊したくなかった。だから、自分の本心を隠し、母の言う通りにするふりをする。

「……うん。わかった。正直に言うね」

うん。と、言った途端、わたしは全身の力が抜けるのを感じた。嘘だ。正直になんて、言えるわけがない。

明日、萌子に会うことは、優子たちに会うこととは違う種類の地雷原を歩くことなのだ。嘘をつくか、蔑視されるか、どちらかを選ばなければならない。

わたしは、急に明日が怖くなった。遊びたい気持ちは本物なのに、明日が来てほしくない。

もし、正直に話して、萌子たちが「可哀想な亜矢ちゃん」と憐れむような目で見たら、わたしはもう二度と、「普通の子」の輪の中に戻れなくなる気がした。

わたしは、母の背中に向かって、「うんとだけ」言ったまま、部屋に戻った。

ベッドの上で、わたしは両膝を抱え込む。明日の午後二時が、まるで処刑の時間のように、重く、わたしに迫ってくるのを感じた。

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