第一章 第六話

教頭先生に廊下に放り出され、図書室の鍵を乱暴に閉められた後、わたしはただ、宿題を抱きしめて泣きながら家までの道を歩いた。

家に帰ったときには、夜の九時半を過ぎていた。

玄関を開けると、リビングから母が飛び出してきた。わたしは、またヒステリックに怒鳴られる、みんなの時間を奪ったと責められる、そう覚悟して目を閉じた。

ところが、母の反応は、わたしの予想とは全く違っている。

「亜矢ちゃん!どこに行ってたの!ママ、ママ、もう心配で……!」

母は、わたしを抱きしめた。その抱擁は、砂漠で渇望した一滴の水のように、わたしを包み込む。普段は決して見せない、動揺と安堵がない交ぜになった顔で、母はわたしの頭を何度も撫でた。

「学校から、連絡が来たの。教頭先生が、亜矢ちゃんが図書室にいるのを見つけたって。もう、本当に心臓が止まるかと思ったよ……!」

母は、わたしの顔を両手で挟み、じっと見つめた。

「怖かったでしょう?ママを許してね。わたし、あの子たちに怒ったのに、またこんなことに……」

初めて、母がわたし自身の恐怖に寄り添う言葉をかけてくれた。自己中心的な怒りではなく、わたしの心身を案じる言葉だった。わたしは、安心と疲労で、母の胸の中で声を上げて泣いた。

その夜、母はわたしを責めることも、父の愚痴を言うこともなく、ただわたしに寄り添ってくれた。わたしが閉じ込められた経緯を話すと、母の顔は、怒りよりも、深い諦めのような色を帯びる。


翌朝。

母は、わたしを学校まで送ると言った。そして、昇降口で立ち止まり、わたしの手を握ると、足を進めてゆく。

「亜矢ちゃん。もうあんな子たちのいる教室には行かなくていいんだよ。ママも、亜矢ちゃんももうあの子たちと喧嘩するのは疲れた。亜矢ちゃんが、これ以上傷つくのを見るのも嫌なの」

母は、そう言って、保健室登校を提案した。

「保健室なら、誰もいないんだよ。保健の先生が優しくしてくれるし、静かに宿題でもしていればいい。ね?それが、今のあなたにとって一番の逃げ場だよ」

わたしは、一瞬、戸惑った。

保健室登校。それは、わたしが「普通の子」から完全に外れることを意味する。教室に行けない、いじめられている子。周囲から「可哀想な子」と白い目で見られる。そのレッテルを貼られるのが、たまらなく怖かった。

「で、でも、ママ。教室に行かないと、みんなに……」

「みんな?あんなガキどものこと、気にしなくていいの!あの子たちなんて、あなたの爪の垢にも値しないよ!あなたが病気じゃないんだから、堂々と保健室に行けばいいんだよ。ね、ママの言う通りにして」

「……」

もし、ここで断ったら、母はまたヒステリックな「支配者」に戻ってしまうのではないか。わたしを心配してくれる、この優しく、落ち着いた母を、失いたくなかった。母の提案は、わたし自身の本心に反していたけれど、この一瞬の「優しさ」を維持するためなら、わたしは「普通じゃない子」になることを受け入れるしかなかった。

わたしは、戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。

「……うん。わかった。保健室に行く」

その言葉を聞いた母は、安堵したように、深く息を吐く。

母は、わたしを連れて職員室へ向かった。教頭先生は、母を見るなり、さっと顔色を変えた。昨日、わたしを激しく罵倒した時の冷たさは、跡形もなく消えている。

「これは北崎様!昨日は大変なご心配をおかけいたしました」

教頭先生は、母と接する時にいつもだす猫なで声で、平身低頭で応対した。

「ええ、もう結構です。もう、あんな子たちと争うつもりもありません。娘を、今日から保健室で対応していただくということで、よろしいですね?」

母が毅然とした態度で告げると、教頭先生は、僅かに眉をひそめたものの、すぐに笑顔に戻った。

「はい、もちろんでございます。お子様の心のケアが最優先ですから。ご心配なく、すぐに手配いたします。では、亜矢さん、保健室に行きましょうね」

教頭先生は、あっさりと保健室登校を了承した。わたしがどれほど追い詰められているか、真剣に考える様子はなかった。ただ「母という爆弾」が、教室に来なくなることに安堵しているだけに見える。

母は、保健室の場所までわたしを送ると、「ママはもうパートがあるから」と、そそくさと帰っていった。わたしを心配する優しさは、ほんの数時間の賞味期限だったようだ。それでも、母の「優しさ」は、わたしの中で、強烈な依存を生み出していた。

保健室のベッドに座り、母が学校を出たことを確認すると、わたしは急に、大きな孤独に襲われる。

わたしは、ベッドの上で、膝を抱えた。

昨日、わたしを閉じ込めた優子たちは、今、一階の教室で、何を話しているだろうか。

「亜矢、とうとう保健室に逃げたんだって」

「ざまあみろ。あのヒステリーママも、もう手出しできないね」

「あいつ、もう普通の子じゃないじゃん」

そんな言葉が、頭の中で木霊する。わたしは、「みんなと同じ教室にいる」という、唯一の「普通」を捨ててしまった。優子たちの思う壺だ。彼女たちは、わたしが自ら孤立の道を選んだことを、最大限に嘲笑するに違いない。

特に、優子が、教室で笑いながら言うであろう、あの言葉が、わたしの心臓を締め付けた。

「亜矢ちゃんって、やっぱり、ママみたいに弱くて、すぐ逃げるんだね」

それは、母のヒステリーをネタにされた時と同じくらい、わたしにとって最も痛い部分だ。母を愛さずにはいられないわたしと、母のように弱いと言われることへの恐怖。

わたしは、保健室の白い天井を見上げながら、考えるのをやめようとした。けれど、優子たちの嘲笑は、もう、わたしの頭の中から、追い出すことのできない「幻聴」になってしまっていた。

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